武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
ぬくい | かげたか |
重臣 | 神仏 | 50 |
(1533-1582)畠山家臣。続宗の子。祖父・総貞の死後に逐電するが、主君・義綱の追放後に帰参。のち織田家に属す。本能寺の変後、所領回復を狙って挙兵するが敗死した。
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温井 |
景隆 |
48 | 44 | 62 |
54 | 25 |
88 |
通常版 | 1548 |
挑発 |
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なつか | まさいえ |
武士 | 神仏 | 45 |
(1556-1600)丹羽家臣。主家没落後は豊臣家に仕え、五奉行の1人となる。算術に通じ、主家の賦課収納の財政処理を担当した。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後自害した。
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長束 |
正家 |
86 | 6 | 12 |
63 | 25 |
23 |
通常版 | 1571 |
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あらき | どうくん |
国人 | 神仏 | 52 |
(1535-1586)池田家臣。有岡城主。のちに織田家に仕えて摂津経略を担当するが、本願寺・毛利家と結び謀叛を起こして敗れ、逃亡。茶人となり、利休七哲の1人となった。
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荒木 |
道薫 |
36 | 64 | 38 |
72 | 25 |
52 |
通常版 | 1550 |
槍衾・1 |
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うらがみ | むねかげ |
守護代 | 神仏 | 71 |
(1512-1582)備前の戦国大名。室津城主を務める兄・政宗と争う一方で、備前に勢力を拡大した。しかし、のちに台頭した家臣・宇喜多直家の攻撃を受けて居城を追われた。
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浦上 |
宗景 |
51 | 54 | 63 |
58 | 25 |
53 |
通常版 | 1527 |
槍衾・1 |
挑発 |
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おだ | まさみつ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1509-1558)少弐家臣。肥前蓮池城主。龍造寺隆信の家督相続に反対した東肥前十九将の1人で、隆信と争う。隆信の肥前復帰後は隆信に仕え、江上武種討伐戦で戦死した。
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小田 |
政光 |
64 | 51 | 59 |
55 | 25 |
24 |
通常版 | 1524 |
斉射・1 |
収拾 |
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かわかみ | ただかつ |
武士 | 神仏 | 86 |
(1501-1586)島津家臣。串木野城主。はじめ薩州島津家に属すが、のちに島津忠良に降り、甑島に3年間配流された。のち家老を務め白山権現の再興に尽くすなど活躍した。
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川上 |
忠克 |
40 | 47 | 43 |
52 | 25 |
56 |
通常版 | 1516 |
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きそ | よしとし |
国人 | 神仏 | 64 |
(1577-1640)徳川家臣。義昌の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。粗暴の振る舞いが多く、叔父・義豊を殺害した罪により改易された。その後は京都で剃髪し、各国を流浪した。
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木曾 |
義利 |
18 | 7 | 4 |
8 | 25 |
81 |
PK追加 | 1592 |
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やなだ | あきやす |
武士 | 神仏 | 55 |
(1539-1593)斯波家臣。大学と称す。主家の前途に不安を抱き、石清水義教らとともに南部家に内通し、斯波家滅亡のきっかけを作った。のち南部家から千石を与えられた。
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簗田 |
詮泰 |
38 | 35 | 47 |
50 | 26 |
99 |
通常版 | 1554 |
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はりゅう | もりのぶ |
重臣 | 神仏 | 73 |
(1553-1625)蘆名家臣。盛幸(蘆名盛滋の子)の孫。1576年、金上盛実と席次の上下を争ったという。関ヶ原合戦で西軍に属したため所領を失い、伊達家に仕えた。
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針生 |
盛信 |
43 | 23 | 34 |
37 | 26 |
47 |
通常版 | 1568 |
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だいほうじ | よしうじ |
僧侶 | 神仏 | 33 |
(1551-1583)出羽の豪族。義増の子。合戦に明け暮れて領政を軽んじたため、領民から「悪屋形」と憎悪された。最上義光に通じた家臣・前森蔵人に謀叛され、自害した。
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大宝寺 |
義氏 |
24 | 59 | 6 |
54 | 26 |
48 |
通常版 | 1566 |
突撃・1 |
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なかの | むねとき |
武士 | 神仏 | 73 |
(1503-1575)伊達家臣。天文の大乱では主君・晴宗の参謀を務め、乱の終息後は家中で最大の勢力を誇った。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れて逃亡し、流浪の末、餓死した。
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中野 |
宗時 |
77 | 11 | 61 |
62 | 26 |
66 |
通常版 | 1518 |
挑発 |
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まさき | ときただ |
武士 | 神仏 | 59 |
(1518-1576)里見家臣。勝浦城主。兄・時茂とともに多くの合戦で戦功を立てる。第二次国府台合戦ののち、正木家の存続を優先して北条家に寝返ったが、のちに帰参した。
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正木 |
時忠 |
42 | 52 | 54 |
44 | 26 |
28 |
通常版 | 1533 |
槍衾・1 |
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だいどうじ | まさしげ |
重臣 | 神仏 | 58 |
(1533-1590)北条家臣。盛昌の子。行政に手腕を発揮し、河越城下の繁栄に貢献した。豊臣秀吉の小田原征伐軍に降伏し、道案内を務めたが、秀吉によって自害させられた。
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大道寺 |
政繁 |
77 | 47 | 54 |
60 | 26 |
09 |
通常版 | 1548 |
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させ | もとよし |
武士 | 神仏 | 75 |
(1546-1620)尼子家臣。清宗の子。父とともに毛利元就の出雲侵攻軍に降る。以後は毛利家に仕え、朝鮮派兵や関ヶ原合戦の際には主家の居城・広島城の留守居役を務めた。
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佐世 |
元嘉 |
46 | 10 | 52 |
46 | 26 |
05 |
通常版 | 1561 |
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ながお | たねつね |
武士 | 神仏 | 65 |
(1541-1605)神戸家臣。山路紀伊守正幽の長男で、はじめ山路久之丞と称す。織田信雄が神戸城を接収したあとは福島正則に仕え、関ヶ原合戦では岐阜城外で西軍と戦った。
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長尾 |
種常 |
41 | 45 | 49 |
52 | 26 |
31 |
PK追加 | 1556 |
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さとう | ためのぶ |
武士 | 神仏 | 49 |
(1543-1591)相馬家臣。好信の子。小斎城主。伊達家との合戦の際、援軍に来た郡左馬助を討ち、父の敵をとる。直後に伊達家に属した。のちに佐沼の戦いで戦死した。
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佐藤 |
為信 |
40 | 49 | 56 |
44 | 27 |
38 |
通常版 | 1558 |
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あさり | よりひら |
国人 | 神仏 | 45 |
(1554-1598)出羽の豪族。勝頼の子。父が謀殺された後、津軽に身を隠す。のちに安東家の代官として比内を治めるが、軍役金未納の問題が起き、訴訟中に大坂で急死した。
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浅利 |
頼平 |
48 | 27 | 14 |
35 | 27 |
33 |
通常版 | 1569 |
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やしろ | かげより |
武士 | 神仏 | 46 |
(1563-1608)伊達家臣。14歳で政宗に近侍。知勇の才群を抜き、政宗不在時の留守居役を任された。しかし傲慢の振る舞いが多かったため改易され、流浪の末に病死した。
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屋代 |
景頼 |
16 | 33 | 73 |
62 | 27 |
65 |
通常版 | 1578 |
混乱 |
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ひねの | ひろなり |
武士 | 神仏 | 83 |
(1520-1602)豊臣家臣。はじめ斎藤家に仕え、織田信長と戦う。主家滅亡後は浅井家に属し、浅井家の滅亡後、豊臣家に仕えた。合戦に実用的な兜「日根野鉢」を考案した。
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日根野 |
弘就 |
37 | 47 | 47 |
46 | 27 |
47 |
通常版 | 1535 |
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みよし | まさやす |
守護代 | 神仏 | 88 |
(1528-1615)三好家臣。三好三人衆の1人。松永久秀とともに将軍・足利義輝を殺害した。織田信長の畿内平定軍に敗れ、逃亡。のち豊臣家に仕え、大坂夏の陣で戦死した。
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三好 |
政康 |
48 | 59 | 47 |
65 | 27 |
51 |
通常版 | 1543 |
斉射・1 |
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