武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
いなわしろ | もりくに |
武士 | 神仏 | 59 |
(1536-1594)蘆名家臣。後妻の讒言により子・盛胤の廃嫡を企むが発覚し、盛胤と争った。のちに主家に背いて伊達家に属し、摺上原合戦では先鋒を務めて蘆名軍と戦った。
|
猪苗代 |
盛国 |
42 | 32 | 57 |
36 | 9 |
65 |
通常版 | 1551 |
|
|
|
たかとお | よりつぐ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1503-1552)信濃の豪族。高遠家は諏訪信員を祖とする諏訪家の庶流。武田信玄と結び諏訪宗家を滅ぼすが、諏訪領に横暴をふるったため信玄と対立、攻撃を受け滅亡した。
|
高遠 |
頼継 |
18 | 8 | 45 |
32 | 9 |
35 |
通常版 | 1518 |
|
|
|
ぬくい | ふささだ |
重臣 | 神仏 | 65 |
(1491-1555)畠山家臣。和歌に造詣深く、主君・義総の寵愛を得る。遊佐家を倒して主家の実権を握り、領内の動揺を招く。のちに権力奪回を目指す主君・義綱に殺された。
|
温井 |
総貞 |
54 | 31 | 70 |
68 | 9 |
88 |
通常版 | 1506 |
鼓舞 |
|
|
いじゅういん | ただむね |
重臣 | 神仏 | 53 |
(1547-1599)島津家臣。忠倉の子。老中を務めた。豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ、人質となった。秀吉から主家と同格の扱いを受けたため、主君・忠恒と対立して殺された。
|
伊集院 |
忠棟 |
66 | 40 | 69 |
63 | 9 |
13 |
通常版 | 1562 |
挑発 |
|
|
だて | まさむね |
守護 | 神仏 | 70 |
(1567-1636)伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。
|
伊達 |
政宗 |
83 | 85 | 82 |
72 | 10 |
69 |
通常版 | 1582 |
斉射・2 |
神速 |
鼓舞 |
はしば | ひでとし |
武士 | 神仏 | 21 |
(1582-1602)豊臣家臣。木下家定の子。豊臣秀吉の命により小早川隆景の養子となる。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、東軍勝利に大きく貢献したが、その2年後に急死した。
|
羽柴 |
秀俊 |
14 | 34 | 21 |
58 | 10 |
07 |
通常版 | 1597 |
|
|
|
たけだ | しんげん |
守護 | 神仏 | 53 |
(1521-1573)甲斐守護。信虎の嫡男。父の苛烈な政策に反対して父を追放、当主となる。精強な騎馬軍団を率い、臨機応変の知略で織田信長を苦しめた。通称「甲斐の虎」。
|
武田 |
信玄 |
84 | 90 | 87 |
74 | 10 |
63 |
通常版 | 1536 |
突撃・2 |
鉄壁 |
混乱 |
やぎゅう | むねのり |
剣豪 | 神仏 | 76 |
(1571-1646)徳川家臣。宗厳の子。兵法師範を務め、主君・秀忠に柳生新陰流を伝授した。秀忠の死後は、秀忠の子・家光に仕える。のちに大目付となり、1万石を領した。
|
柳生 |
宗矩 |
63 | 36 | 76 |
63 | 10 |
81 |
通常版 | 1586 |
槍衾・1 |
破壊 |
|
りゅうぞうじ | たかのぶ |
僧侶 | 神仏 | 56 |
(1529-1584)龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江両家を統一して勢力を拡大し、九州5カ国2島を領した「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。
|
龍造寺 |
隆信 |
42 | 77 | 54 |
55 | 10 |
62 |
通常版 | 1544 |
槍衾・2 |
破壊 |
|
いわしみず | よしのり |
武士 | 神仏 | 60 |
(1547-1606)斯波家臣。義長の弟。右京を称す。主家の前途に不安を抱き、南部家に内通。居城・石清水館で兵を挙げ、これをきっかけに南部軍が侵攻、斯波家は滅亡した。
|
岩清水 |
義教 |
45 | 40 | 59 |
47 | 11 |
99 |
通常版 | 1562 |
混乱 |
|
|
くるま | つなただ |
武士 | 神仏 | 51 |
(1552-1602)佐竹家臣。和田昭為を主君・義重に讒言して追放、義重の側近となる。関ヶ原合戦の際は上杉家に属した。主家転封後、水戸城の奪回を企むが敗れて殺された。
|
車 |
斯忠 |
41 | 34 | 54 |
50 | 11 |
18 |
通常版 | 1567 |
|
|
|
さいとう | よしたつ |
守護 | 神仏 | 35 |
(1527-1561)美濃の戦国大名。道三の子。美濃守護・土岐頼芸の子ともいう。家督を巡って父と対立、父を討って美濃国主となるが急死した。身長6尺5寸の巨漢と伝わる。
|
斎藤 |
義龍 |
54 | 81 | 67 |
58 | 11 |
34 |
通常版 | 1542 |
槍衾・2 |
挑発 |
|
ゆさ | つぐみつ |
守護代 | 神仏 | 55 |
(1527-1581)畠山家臣。温井家との政争に敗れて出奔するが、和睦して帰参する。のちに上杉家に通じて能登を治めるが、織田家の台頭により逐電し、捕縛され斬首された。
|
遊佐 |
続光 |
58 | 41 | 67 |
55 | 11 |
84 |
通常版 | 1542 |
混乱 |
|
|
しまむら | もりざね |
武士 | 神仏 | 65 |
(1495-1559)浦上家臣。入道名は貫阿弥。宇喜多能家を砥石城に襲って自害させ、家中の実権を独占する。しかし、のちに謀叛疑惑により能家の孫・宇喜多直家に討たれた。
|
島村 |
盛実 |
24 | 9 | 60 |
53 | 11 |
53 |
通常版 | 1510 |
混乱 |
|
|
ちょうそかべ | もとちか |
武士 | 神仏 | 61 |
(1539-1599)土佐の戦国大名。岡豊城主。国親の子。剽悍の一領具足衆を率い、瞬く間に周辺諸国を制圧。10数年で四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」の異名をとった。
|
長宗我部 |
元親 |
76 | 82 | 83 |
67 | 11 |
80 |
通常版 | 1554 |
槍衾・2 |
神速 |
鼓舞 |
としま | しげむら |
国人 | 神仏 | 55 |
(1521-1575)安東家臣。畠山重忠の末裔という。1570年、湊安東家臣の下刈右京らと結んで謀叛を起こすが、安東愛季の軍勢に敗れ、妻の実家・仁賀保家を頼った。
|
豊島 |
重村 |
28 | 15 | 31 |
27 | 12 |
34 |
通常版 | 1536 |
|
|
|
ぬまた | まんきさい |
国人 | 神仏 | 65 |
(1510-1574)上野の豪族。沼田城を築き居城とする。上杉謙信の関東侵攻軍に降った。のちに嗣子・朝憲を殺し末子・景義の擁立をはかったため家臣の反発を買い逐電した。
|
沼田 |
万鬼斎 |
54 | 40 | 44 |
42 | 12 |
21 |
通常版 | 1525 |
|
|
|
みつぎ | くにつな |
高家 | 神仏 | 40 |
(1546-1585)姉小路家臣。主君・頼綱の妹を娶る。金森長近率いる飛騨侵攻軍に敗れ、捕縛されるが助命される。のち、長近の支配に不満を持ち謀叛を起こすが、敗死した。
|
三木 |
国綱 |
36 | 17 | 57 |
45 | 12 |
47 |
通常版 | 1561 |
|
|
|
はやし | らざん |
商人 | 神仏 | 75 |
(1583-1657)徳川家臣。林家朱子学の祖。以心崇伝とともに方広寺鐘銘事件で豊臣秀頼を誹謗し、大坂の陣のきっかけを作った。のちに幕政に参画、各種公文書を起草した。
|
林 |
羅山 |
79 | 1 | 72 |
82 | 12 |
80 |
通常版 | 1598 |
挑発 |
|
|
なりた | ながやす |
国人 | 神仏 | 79 |
(1508-1586)山内上杉家臣。忍城主。主家滅亡後は上杉謙信に属した。しかし、謙信が鶴岡八幡宮に参拝した際、謙信の怒りを買ったため離反し、その後は北条家に属した。
|
成田 |
長泰 |
46 | 50 | 54 |
46 | 13 |
65 |
通常版 | 1523 |
|
|
|