武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
りゅうぞうじ | たかのぶ |
僧侶 | 神仏 | 56 |
(1529-1584)龍造寺家19代当主。周家の子。村中・水ヶ江両家を統一して勢力を拡大し、九州5カ国2島を領した「肥前の熊」。沖田畷合戦で島津軍に大敗し、戦死した。
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龍造寺 |
隆信 |
42 | 77 | 54 |
55 | 10 |
62 |
通常版 | 1544 |
槍衾・2 |
破壊 |
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りゅうぞうじ | まさいえ |
武士 | 神仏 | 42 |
(1566-1607)龍造寺家20代当主。隆信の嫡男。豊臣秀吉の九州征伐軍の先鋒を務め、所領を安堵される。病のため、秀吉の許可を得て領国経営を家臣・鍋島直茂に委ねた。
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龍造寺 |
政家 |
27 | 40 | 9 |
59 | 28 |
62 |
通常版 | 1581 |
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りゅうぞうじ | のぶちか |
武士 | 神仏 | 75 |
(1534-1608)龍造寺家臣。周家の次男。須古鍋島家の祖となる。大友家の衰退後は豊前方面に進出し、豊前の諸将を服属させて政務を司り、兄・隆信の勢力拡大に貢献した。
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龍造寺 |
信周 |
55 | 45 | 51 |
57 | 62 |
62 |
通常版 | 1549 |
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りゅうぞうじ | ながのぶ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1539-1603)龍造寺家臣。周家の三男。多久家の祖となる。肥前梶峯城主を務め、西肥前の有馬家や松浦家に備える。兄・隆信の肥前における勢力の確立に大きく貢献した。
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龍造寺 |
長信 |
56 | 45 | 46 |
57 | 55 |
62 |
通常版 | 1554 |
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えりぐち | のぶつね |
武士 | 神仏 | 37 |
(1548-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報を聞くと、単身で島津家久軍の本陣に突入し戦死。「無双の剛の者」と家久に賞賛された。
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江里口 |
信常 |
5 | 74 | 35 |
39 | 93 |
62 |
通常版 | 1563 |
槍衾・1 |
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えんじょうじ | のぶたね |
武士 | 神仏 | 44 |
(1541-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人といわれる。沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報告を受けると、隆信に似せた出で立ちをしたのち、敵陣に斬り込んで戦死した。
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円城寺 |
信胤 |
9 | 69 | 36 |
36 | 79 |
62 |
通常版 | 1556 |
槍衾・1 |
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きのした | まさなお |
武士 | 神仏 | 87 |
(1524-1610)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人といわれる。沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報を聞くと、鍋島直茂を離脱させたのち、敵陣に突入した。生死は諸説あり不明。
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木下 |
昌直 |
16 | 72 | 45 |
56 | 34 |
62 |
通常版 | 1539 |
槍衾・1 |
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なりまつ | のぶかつ |
武士 | 神仏 | 45 |
(1540-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。今山合戦で大友軍総大将を討つ功を立てた。沖田畷合戦に軍奉行として従軍、主君・隆信の戦死を聞くと敵陣に突入し戦死。
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成松 |
信勝 |
18 | 72 | 49 |
54 | 90 |
62 |
通常版 | 1555 |
斉射・1 |
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ひゃくたけ | ともかね |
武士 | 神仏 | 47 |
(1538-1584)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人。今山合戦などで活躍し、武勇百人にまさると主君・隆信から百武姓を賜る。沖田畷合戦の際は隆信の身辺を守り、戦死した。
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百武 |
賢兼 |
15 | 71 | 22 |
36 | 85 |
62 |
通常版 | 1553 |
突撃・1 |
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はやみ | もりひさ |
武士 | 神仏 | 57 |
(1559-1615)豊臣家臣。近習組頭として小牧長久手合戦や小田原征伐に従軍した。秀吉没後は秀頼に仕え、七手組頭の1人となる。夏の陣の際、秀頼に殉じて自害した。
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速水 |
守久 |
45 | 59 | 54 |
52 | 60 |
62 |
PK追加 | 1574 |
突撃・1 |
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