武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
だて | まさむね |
守護 | 神仏 | 70 |
(1567-1636)伊達家17代当主。輝宗の嫡男。瞬く間に周辺諸国を切り従えて24歳で奥州に覇を唱え「独眼竜」と畏怖された。権謀術数で豊臣・徳川両政権を生き抜いた。
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伊達 |
政宗 |
83 | 85 | 82 |
72 | 10 |
69 |
通常版 | 1582 |
斉射・2 |
神速 |
鼓舞 |
かたくら | かげつな |
武士 | 神仏 | 59 |
(1557-1615)伊達家臣。19歳で主君・政宗の傅役となり「智」の面で政宗を補佐した智将。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣するよう政宗を説得し、伊達家の存続に貢献した。
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片倉 |
景綱 |
81 | 76 | 80 |
67 | 91 |
69 |
通常版 | 1572 |
斉射・2 |
神速 |
混乱 |
かたくら | しげなが |
武士 | 神仏 | 76 |
(1584-1659)伊達家臣。景綱の子。大坂夏の陣で後藤基次らを討ち取るなど活躍し、徳川家康から「鬼」と評された。この時に真田幸村の娘・梅を保護し、のちに妻とした。
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片倉 |
重長 |
51 | 67 | 36 |
41 | 76 |
69 |
通常版 | 1599 |
突撃・1 |
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ごとう | のぶやす |
武士 | 神仏 | 60 |
(1555-1614)伊達家臣。湯目重弘の子で、後藤家を継ぐ。檜原城を守り、蘆名家に備えた。知勇に秀で、合戦では必ず黄色の母衣を用いたため「黄後藤」の異名をとった。
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後藤 |
信康 |
8 | 63 | 32 |
27 | 60 |
69 |
通常版 | 1570 |
突撃・1 |
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はらだ | むねとき |
武士 | 神仏 | 29 |
(1565-1593)伊達家臣。18歳で兵馬の権を与えられ各地で功を立てた剛勇の士。豊臣秀吉の朝鮮派兵に従軍中、病死した。伊達騒動の主人公・原田甲斐宗輔は孫にあたる。
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原田 |
宗時 |
16 | 71 | 47 |
46 | 68 |
69 |
通常版 | 1580 |
突撃・1 |
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なりた | うじなが |
国人 | 神仏 | 54 |
(1542-1595)北条家臣。忍城主。長泰の嫡男。豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠城。居城は石田三成の水攻めに抗戦、落ちなかった。主家滅亡後は蒲生氏郷に仕えた。
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成田 |
氏長 |
55 | 45 | 59 |
50 | 57 |
69 |
通常版 | 1557 |
収拾 |
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やまざき | ながのり |
武士 | 神仏 | 69 |
(1552-1620)朝倉家臣。主家滅亡後は明智光秀に属し本能寺の変に従軍。光秀の死後は柴田勝家に属し、賤ヶ岳合戦に従軍した。勝家の死後は前田家を経て徳川家に仕えた。
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山崎 |
長徳 |
21 | 36 | 27 |
31 | 14 |
69 |
通常版 | 1567 |
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いっしき | よしみち |
守護 | 神仏 | 47 |
(1533-1579)丹後の戦国大名。義幸の子。京を追われた将軍・足利義昭を庇護したため、織田軍に攻められる。善戦するが、家臣・沼田勘解由の内通により敗れ、自害した。
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一色 |
義道 |
26 | 57 | 31 |
59 | 64 |
69 |
通常版 | 1548 |
突撃・1 |
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あかまつ | はるまさ |
高家 | 神仏 | 53 |
(1513-1565)播磨守護。家臣・浦上村宗に傀儡とされる。のち細川晴元と通じ、大物崩れの戦いで村宗を討つが、尼子晴久に攻撃されるなど、領国経営は名のみであった。
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赤松 |
晴政 |
26 | 14 | 24 |
32 | 34 |
69 |
通常版 | 1528 |
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