武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
あかまつ | はるまさ |
高家 | 神仏 | 53 |
(1513-1565)播磨守護。家臣・浦上村宗に傀儡とされる。のち細川晴元と通じ、大物崩れの戦いで村宗を討つが、尼子晴久に攻撃されるなど、領国経営は名のみであった。
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赤松 |
晴政 |
26 | 14 | 24 |
32 | 34 |
69 |
通常版 | 1528 |
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あかまつ | よしすけ |
高家 | 神仏 | 40 |
(1537-1576)晴政の子。織田信長に通じたが、浦上政宗と戦って敗れ、没落した。赤松家は村上源氏の流れをくみ、建武政府樹立に貢献した赤松則村(円心)を始祖とする。
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赤松 |
義祐 |
51 | 30 | 42 |
63 | 42 |
72 |
通常版 | 1552 |
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あかまつ | のりふさ |
高家 | 神仏 | 40 |
(1559-1598)豊臣家臣。義祐の子。播磨置塩1万石を安堵される。賤ヶ岳合戦や小牧長久手合戦、四国征伐に従軍し、阿波住吉1万石を加増された。朝鮮派兵にも従軍した。
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赤松 |
則房 |
49 | 31 | 50 |
64 | 56 |
72 |
通常版 | 1574 |
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あかまつ | まさひで |
武士 | 神仏 | 50 |
(1521-1570)赤松家臣。龍野城主。主君・晴政を居城に迎える。浦上政宗を討ち、また別所安治と結んで小寺政職や黒田職隆と戦うなど活躍した。のちに毒殺されたという。
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赤松 |
政秀 |
39 | 60 | 62 |
61 | 77 |
73 |
通常版 | 1536 |
突撃・1 |
収拾 |
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あかまつ | のりひで |
高家 | 神仏 | 30 |
(1571-1600)豊臣家臣。則房の子。父の死後、阿波住吉1万石を相続する。関ヶ原合戦では西軍に属して近江佐和山城に籠城。落城直前に脱出したが、戦後京都で自害した。
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赤松 |
則英 |
43 | 29 | 26 |
27 | 74 |
73 |
PK追加 | 1586 |
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さいむら | まさひろ |
武士 | 神仏 | 39 |
(1562-1600)豊臣家臣。赤松政秀の子。藤原惺窩より漢学を学んだ。関ヶ原合戦で西軍から東軍に寝返るが、因幡鳥取城下を焼き払ったため、徳川家康の命により自害した。
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斎村 |
政広 |
62 | 36 | 15 |
81 | 54 |
73 |
PK追加 | 1577 |
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