武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
なりた | おさただ |
国人 | 神仏 | 70 |
(1547-1616)北条家臣。忍城主。長泰の次男。主家滅亡後は蒲生氏郷に仕える。兄・氏長の死後、その遺領を継いだ。関ヶ原合戦では東軍に属した。大坂の陣にも参陣した。
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成田 |
長忠 |
52 | 36 | 34 |
44 | 60 |
72 |
通常版 | 1562 |
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ふじかた | ともなり |
武士 | 神仏 | 68 |
(1530-1597)北畠家臣。織田信長の伊勢侵攻軍に降り北畠家を継いだ織田信雄に仕える。のちに信長の命により、旧主・具教を謀殺した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属した。
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藤方 |
朝成 |
46 | 41 | 57 |
36 | 16 |
72 |
通常版 | 1545 |
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かつらだ | ながとし |
武士 | 神仏 | 34 |
(1541-1574)朝倉家臣。織田信長の越前侵攻軍にいち早く降り、道案内を担当した。この功によって越前守護代となるが、これを不服とした富田長繁に攻められ、敗死した。
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桂田 |
長俊 |
48 | 18 | 54 |
48 | 42 |
72 |
通常版 | 1556 |
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いっしき | みつのぶ |
守護 | 神仏 | 25 |
(1558-1582)丹後の戦国大名。義道の子。父の死後、家臣・稲富祐直を頼り、細川藤孝軍と戦う。のち明智光秀の斡旋で和睦し藤孝の娘を娶るが、再び背いたため殺された。
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一色 |
満信 |
46 | 58 | 45 |
53 | 61 |
72 |
通常版 | 1573 |
斉射・1 |
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いっしき | よしきよ |
守護 | 神仏 | 48 |
(1535-1582)丹後の戦国大名。甥・満信が細川藤孝に謀殺されたあと、弓木城に入り一色宗家を継いだ。しかし、細川忠興に城を包囲されたため、敵陣に突入して戦死した。
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一色 |
義清 |
33 | 49 | 36 |
52 | 56 |
72 |
通常版 | 1550 |
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あかまつ | よしすけ |
高家 | 神仏 | 40 |
(1537-1576)晴政の子。織田信長に通じたが、浦上政宗と戦って敗れ、没落した。赤松家は村上源氏の流れをくみ、建武政府樹立に貢献した赤松則村(円心)を始祖とする。
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赤松 |
義祐 |
51 | 30 | 42 |
63 | 42 |
72 |
通常版 | 1552 |
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あかまつ | のりふさ |
高家 | 神仏 | 40 |
(1559-1598)豊臣家臣。義祐の子。播磨置塩1万石を安堵される。賤ヶ岳合戦や小牧長久手合戦、四国征伐に従軍し、阿波住吉1万石を加増された。朝鮮派兵にも従軍した。
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赤松 |
則房 |
49 | 31 | 50 |
64 | 56 |
72 |
通常版 | 1574 |
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じょう | ちかふゆ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1511-1575)菊池家臣。主君・義武の肥後隈本城回復戦の際は大友家に属し、恩賞として肥後隈本城主となり、飽田・詫摩二郡を支配する。のちに肥前に出兵するが敗れた。
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城 |
親冬 |
57 | 46 | 38 |
53 | 50 |
72 |
通常版 | 1526 |
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じょう | ちかかた |
武士 | 神仏 | 41 |
(1541-1581)大友家臣。肥後隈本城主。親冬の嫡男。主家没落後は島津家に属し、島津勢を城外に招いて国内経営に協力した。龍造寺勢力の南下に伴い、龍造寺家に従った。
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城 |
親賢 |
42 | 49 | 45 |
46 | 38 |
72 |
通常版 | 1556 |
槍衾・1 |
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じょう | ちかもと |
武士 | 神仏 | 50 |
(1543-1592)島津家臣。肥後隈本城主。親冬の次男。龍造寺軍を破るなど活躍したが、豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、所領を安堵される。肥後国人一揆には関与しなかった。
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城 |
親基 |
31 | 42 | 29 |
28 | 64 |
72 |
通常版 | 1558 |
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かわさき | すけなが |
武士 | 神仏 | 83 |
(1533-1615)伊東家臣。目井城主。駿河守と称す。主君・義祐の豊後退去に従う。貧窮を助けるために酒や織物を作り売ったという。主家が旧領に復すと酒谷城主となった。
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川崎 |
祐長 |
67 | 31 | 42 |
59 | 90 |
72 |
通常版 | 1548 |
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