武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
なんじょう | もとただ |
国人 | 神仏 | 45 |
(1570-1614)南条家9代当主。羽衣石城主。元続の嫡男。関ヶ原合戦で西軍に属して改易。のちに豊臣秀頼に属すが、大坂冬の陣の際に徳川軍への内通疑惑により殺された。
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南条 |
元忠 |
23 | 36 | 16 |
23 | 16 |
96 |
PK追加 | 1585 |
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とみた | うじざね |
重臣 | 神仏 | 51 |
(1541-1591)蘆名家臣。四天の宿老の1人。主君・盛隆の死後、伊達政宗の弟・小次郎を後継に推すが敗れた。摺上原合戦では留守居を務め、主力の敗北後、伊達家に降る。
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富田 |
氏実 |
66 | 19 | 36 |
44 | 17 |
46 |
通常版 | 1556 |
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しばた | かつとよ |
武士 | 神仏 | 28 |
(1556-1583)柴田家臣。叔父・勝家の養子となる。長浜城主を務めた。のちに勝家と対立し、その事を知った羽柴秀吉に攻められ、降伏した。賤ヶ岳合戦の直後、病死した。
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柴田 |
勝豊 |
27 | 10 | 9 |
29 | 17 |
85 |
通常版 | 1571 |
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おおくぼ | ながやす |
庶民 | 神仏 | 69 |
(1545-1613)徳川家臣。主家の天領の統括、新技術を利用した金銀の採鉱、一里塚・伝馬宿の設立など幕府の民政、財政面に大きく貢献し「天下の総代官」の異名をとった。
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大久保 |
長安 |
84 | 1 | 55 |
36 | 17 |
78 |
通常版 | 1560 |
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わきざか | やすはる |
武士 | 神仏 | 73 |
(1554-1626)豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。主君・秀吉の中国征伐の際に「丹波の赤鬼」赤井直正を討ち取る功を立てた。関ヶ原合戦では東軍に寝返り所領を安堵された。
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脇坂 |
安治 |
22 | 55 | 36 |
35 | 17 |
06 |
通常版 | 1569 |
槍衾・1 |
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つくし | ひろかど |
国人 | 神仏 | 68 |
(1556-1623)肥前の豪族。五箇山城主。惟門の子。毛利・大友・龍造寺・島津家の間で離合集散を繰り返し、のちに豊臣秀吉に降る。関ヶ原合戦で西軍に属して改易された。
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筑紫 |
広門 |
55 | 38 | 73 |
63 | 17 |
45 |
通常版 | 1571 |
収拾 |
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おだ | のぶやす |
守護代 | 神仏 | 73 |
(1519-1591)尾張の豪族。岩倉城主。織田信勝を支持したため、織田信長と浮野で戦い敗北。のちに子・信賢らに追放された。その後も斎藤義龍を頼り、信長に対抗した。
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織田 |
信安 |
30 | 20 | 37 |
40 | 18 |
46 |
通常版 | 1534 |
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おばた | かげのり |
武士 | 神仏 | 92 |
(1572-1663)徳川家臣。甲州流兵学者。昌盛の子。主君・秀忠の小姓となるが、のちに出奔。大坂の陣後、帰参を果たした。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟に教授した。
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小幡 |
景憲 |
3 | 66 | 54 |
64 | 18 |
59 |
通常版 | 1587 |
斉射・1 |
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あぐい | かげたけ |
守護代 | 神仏 | 40 |
(1536-1575)朝倉家臣。景隆の子。姉川合戦では朝倉軍の総大将として奮戦。主家滅亡後は織田信長に属すが、一向一揆に降伏したため、信長の怒りを買い自害させられた。
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安居 |
景健 |
22 | 55 | 29 |
54 | 18 |
52 |
通常版 | 1551 |
突撃・1 |
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みむら | ちかしげ |
武士 | 神仏 | 59 |
(1522-1580)三村家臣。家親の弟。甥・元親が勢力回復を目指して織田信長に通じた際、反対して追放される。のちに毛利軍を案内して元親を討ち、戦後鶴首城主となった。
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三村 |
親成 |
54 | 36 | 58 |
51 | 18 |
53 |
通常版 | 1537 |
混乱 |
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くわな | よしなり |
武士 | 神仏 | 65 |
(1551-1615)長宗我部家臣。土佐中村城代を務める。戸次川合戦、浦戸一揆鎮圧などで活躍した。主家改易後は藤堂家に属す。大坂夏の陣の際に旧主・盛親と戦い戦死した。
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桑名 |
吉成 |
39 | 45 | 42 |
37 | 18 |
75 |
通常版 | 1566 |
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ふじた | のぶよし |
武士 | 神仏 | 58 |
(1559-1616)武田家臣。主家滅亡後は上杉家に仕え、佐渡攻略などに活躍した。関ヶ原合戦の直前に上杉家を出奔、上杉・徳川家間の調停工作を行うが失敗し、剃髪した。
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藤田 |
信吉 |
43 | 52 | 58 |
37 | 19 |
76 |
通常版 | 1574 |
斉射・1 |
挑発 |
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せんごく | ひでひさ |
武士 | 神仏 | 64 |
(1551-1614)豊臣家臣。淡路島平定の功により、淡路州本5万石を領す。九州征伐の先鋒を務めた際、戸次川合戦で島津軍に大敗し、領国を没収されるが、のちに帰参した。
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仙石 |
秀久 |
15 | 36 | 24 |
22 | 19 |
04 |
通常版 | 1566 |
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おおくま | ともひで |
武士 | 神仏 | 66 |
(1517-1582)長尾家臣。箕冠城主。主君・景虎の側近として政務に参画した。景虎の出家騒動に乗じて謀叛を起こすが敗れる。以後は武田家に仕え、甲斐天目山で戦死した。
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大熊 |
朝秀 |
72 | 7 | 62 |
55 | 19 |
88 |
通常版 | 1532 |
収拾 |
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くつき | もとつな |
国人 | 神仏 | 84 |
(1549-1632)近江の豪族。晴綱の子。織田信長の越前撤退の際に道案内を務め、以後は織田家に属した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では東軍に寝返った。
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朽木 |
元綱 |
60 | 37 | 61 |
50 | 19 |
61 |
通常版 | 1564 |
収拾 |
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やまな | とよくに |
高家 | 神仏 | 79 |
(1548-1626)因幡守護。鳥取城主。豊定の三男。武田高信を討ち居城を奪回する。羽柴秀吉に属すが、毛利家に通じた家臣たちに追放された。のち、秀吉の御咄衆を務めた。
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山名 |
豊国 |
27 | 18 | 10 |
63 | 19 |
79 |
通常版 | 1563 |
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こうの | みちなお |
守護 | 神仏 | 73 |
(1500-1572)伊予の戦国大名。湯築城主。家臣の謀叛や他国からの侵攻が相次ぎ、対策に苦慮した。娘婿・来島通康に家督を譲ろうとするが家臣に反対され、内紛を招いた。
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河野 |
通直 |
42 | 34 | 20 |
52 | 19 |
29 |
通常版 | 1515 |
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こまきね | としまさ |
国人 | 神仏 | 82 |
(1554-1635)豊臣・徳川家臣。陸奥岩城の地侍をよく掌握していたため、3千石を与えられ、代官となる。関ヶ原合戦後は徳川家に仕え、平藩主となった鳥居忠政に仕えた。
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駒木根 |
利政 |
65 | 51 | 45 |
54 | 19 |
46 |
PK追加 | 1569 |
斉射・1 |
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なんじょう | ひろつぐ |
国人 | 神仏 | 35 |
(1528-1562)蠣崎家臣。勝山館主。蠣崎季広の長女を娶った。のちに妻が弟の舜広、元広(季広の長男、次男)を毒殺した罪に連座して自害。「逆さ水松」の伝説を残した。
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南条 |
広継 |
34 | 51 | 58 |
47 | 20 |
33 |
通常版 | 1543 |
挑発 |
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しかま | たかひで |
武士 | 神仏 | 50 |
(1547-1596)大崎家臣。四釜城主。剛勇にして智力ありと謳われた。大崎家内乱の際には、主君・義隆の命で中新田城を守り、侵攻してきた伊達軍と抗戦、これを撃退した。
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四釜 |
隆秀 |
46 | 56 | 52 |
53 | 20 |
96 |
通常版 | 1562 |
斉射・1 |
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