武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
かしやま | あきすけ |
武士 | 神仏 | 47 |
(1578-1624)葛西家臣。明宗の嫡男。主家滅亡後、南部家に仕える。岩崎城代を務め、和賀兵乱の鎮定などに活躍したが、剛勇ぶりを恐れた主君・利直によって毒殺された。
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柏山 |
明助 |
10 | 56 | 21 |
35 | 57 |
79 |
通常版 | 1593 |
突撃・1 |
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まいや | つねひで |
武士 | 神仏 | 57 |
(1535-1591)葛西家臣。米谷城主。常時の嫡男。米谷家は亀掛川千葉家の流れ。桃生郡深谷において弟(五男)・常忠、弟(七男)・信忠とともに伊達政宗に謀殺された。
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米谷 |
常秀 |
33 | 36 | 33 |
44 | 52 |
79 |
通常版 | 1550 |
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おだ | のぶかつ |
守護代 | 神仏 | 22 |
(1536-1557)信秀の次男。名は信行とも。うつけと呼ばれた兄・信長に対し、利発で家中の評判が良かった。林秀貞らに擁立されて家督を争うが、清洲城で信長に殺された。
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織田 |
信勝 |
47 | 30 | 27 |
66 | 49 |
79 |
通常版 | 1551 |
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つだ | のぶずみ |
守護代 | 神仏 | 28 |
(1555-1582)信勝の子。伯父・信長に仕える。明智光秀の娘を娶った。「一段の逸物」と評された器量の持ち主であったが、本能寺の変の際に、従兄弟・信孝に殺された。
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津田 |
信澄 |
37 | 47 | 31 |
61 | 47 |
79 |
通常版 | 1570 |
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うえすぎ | かげとら |
武士 | 神仏 | 26 |
(1554-1579)北条氏康の七男。越相同盟成立の際に越後に赴き、のちに上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱において義弟の上杉景勝と家督を争うが、敗死した。
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上杉 |
景虎 |
49 | 31 | 22 |
59 | 31 |
79 |
通常版 | 1569 |
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やまな | とよくに |
高家 | 神仏 | 79 |
(1548-1626)因幡守護。鳥取城主。豊定の三男。武田高信を討ち居城を奪回する。羽柴秀吉に属すが、毛利家に通じた家臣たちに追放された。のち、秀吉の御咄衆を務めた。
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山名 |
豊国 |
27 | 18 | 10 |
63 | 19 |
79 |
通常版 | 1563 |
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かきや | つぐなり |
国人 | 神仏 | 89 |
(1482-1570)山名家臣。楽々前城主。主君・致豊の但馬守護就任に伴って守護代となり、領国経営の実権を握った。のちに田結庄是義と対立し、是義に奇襲されて自害した。
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垣屋 |
続成 |
52 | 45 | 60 |
60 | 31 |
79 |
通常版 | 1497 |
挑発 |
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かきや | みつなり |
国人 | 神仏 | 70 |
(1523-1592)山名家臣。続成の子。父を殺した田結庄是義と戦い、是義を討った。のちに羽柴秀吉の中国征伐軍に降り、因幡鳥取城攻撃などに参加、因幡で1万石を領した。
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垣屋 |
光成 |
43 | 47 | 45 |
54 | 50 |
79 |
通常版 | 1538 |
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おおうち | よしなが |
高家 | 神仏 | 26 |
(1532-1557)大内家32代当主。大友義鑑の子。大内義隆の死後、陶晴賢に擁されて大内家を継いだ。厳島合戦で晴賢が戦死したあとは毛利軍の侵攻を受け続け、自害した。
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大内 |
義長 |
32 | 18 | 10 |
63 | 56 |
79 |
通常版 | 1547 |
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ながくら | すけまさ |
武士 | 神仏 | 41 |
(1538-1578)伊東家臣。島津軍との戦いで敵将を討ち取る功を立て、伊東姓を賜る。主家の豊後退去後、日向に残る旧臣を糾合して一揆を企むが失敗した。耳川合戦で戦死。
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長倉 |
祐政 |
21 | 63 | 37 |
31 | 62 |
79 |
通常版 | 1553 |
突撃・1 |
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