武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
かめい | これのり |
武士 | 神仏 | 56 |
(1557-1612)尼子家臣。主家滅亡後は豊臣家に仕え、鹿野城主となる。干拓や用水路の建設など、領内の産業振興に努めた。また朱印状を得て、シャムに貿易船を派遣した。
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亀井 |
茲矩 |
74 | 38 | 59 |
66 | 27 |
04 |
通常版 | 1572 |
鼓舞 |
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ないとう | おきもり |
重臣 | 神仏 | 60 |
(1495-1554)大内家臣。長門守護代を務めた。陶晴賢の謀叛に同調するが積極的に動かず、孫の隆世が晴賢に従ったため、家中が分裂したという。文人として声望があった。
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内藤 |
興盛 |
63 | 21 | 50 |
67 | 27 |
65 |
通常版 | 1510 |
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うえむら | よりおき |
武士 | 神仏 | 68 |
(1490-1557)相良家臣。肥後上村城主。子・晴広を継嗣とする約束で主君・義滋に協力する。義滋政権の陰の実力者として、その実現と存続のために義兄や実弟を謀殺した。
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上村 |
頼興 |
60 | 38 | 76 |
65 | 27 |
55 |
通常版 | 1505 |
混乱 |
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いのまた | くにのり |
武士 | 神仏 | 42 |
(1549-1590)北条家臣。北条氏邦に仕え、沼田城代を務めた。真田昌幸の支城・名胡桃城を独断で奪取し、豊臣秀吉に小田原征伐の口実を与えた。戦後、磔刑に処せられた。
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猪俣 |
邦憲 |
2 | 38 | 18 |
18 | 28 |
78 |
通常版 | 1564 |
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かに | よしなが |
武士 | 神仏 | 60 |
(1554-1613)福島家臣。侍大将を務める。宝蔵院胤栄に槍術を学ぶ。関ヶ原合戦では討ち取った17の首級すべてに笹を差して目印としたため「笹の才蔵」の異名をとった。
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可児 |
吉長 |
3 | 71 | 18 |
10 | 28 |
77 |
通常版 | 1569 |
槍衾・1 |
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みつぎ | なおより |
武士 | 神仏 | 58 |
(1497-1554)飛騨の豪族。桜洞城を築いて居城とし、版図を拡大する。飛騨国司・姉小路家や美濃の土岐家、本願寺などと友好関係を結び、飛騨国内に一大勢力を築いた。
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三木 |
直頼 |
72 | 64 | 76 |
61 | 28 |
47 |
通常版 | 1512 |
突撃・1 |
破壊 |
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いしん | すうでん |
僧侶 | 神仏 | 65 |
(1569-1633)徳川家臣。武家諸法度などの法令制定を担当する。方広寺鐘銘事件を引き起こして大坂の陣の口実を作るなど調略面でも活躍し「黒衣の宰相」の異名をとった。
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以心 |
崇伝 |
80 | 1 | 84 |
84 | 28 |
85 |
通常版 | 1584 |
挑発 |
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やすみ | なおまさ |
武士 | 神仏 | 38 |
(1534-1571)畠山家臣。河内交野城主。河内守護代を務めた。主君・高政を紀伊に追放し、高政の弟・昭高を擁立する。のち織田信長の畿内平定軍に降り、本願寺と戦った。
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安見 |
直政 |
55 | 35 | 64 |
55 | 28 |
84 |
通常版 | 1549 |
挑発 |
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おがさわら | なりすけ |
武士 | 神仏 | 55 |
(1528-1582)三好家臣。一宮城主。主君・長慶の妹を娶る。和泉久米田合戦で三好軍が敗北を喫した際、軍をまとめて退却させ、賞賛された。のち長宗我部元親に殺された。
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小笠原 |
成助 |
19 | 58 | 41 |
40 | 28 |
63 |
通常版 | 1543 |
突撃・1 |
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りゅうぞうじ | まさいえ |
武士 | 神仏 | 42 |
(1566-1607)龍造寺家20代当主。隆信の嫡男。豊臣秀吉の九州征伐軍の先鋒を務め、所領を安堵される。病のため、秀吉の許可を得て領国経営を家臣・鍋島直茂に委ねた。
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龍造寺 |
政家 |
27 | 40 | 9 |
59 | 28 |
62 |
通常版 | 1581 |
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ありま | のりより |
武士 | 神仏 | 70 |
(1533-1602)播磨の豪族。重則の子。豊臣秀吉に仕え九州征伐、朝鮮派兵などに従軍。秀吉の死後は徳川家康に仕えて関ヶ原合戦に従軍し、戦後、摂津三田3万石を領した。
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有馬 |
則頼 |
62 | 32 | 47 |
49 | 28 |
49 |
PK追加 | 1548 |
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なんぶ | はるまさ |
国人 | 神仏 | 66 |
(1517-1582)南部家24代当主。安信の子。将軍・足利義晴の偏諱を賜り、晴政と名乗る。三戸城を本拠に「三日月の丸くなるまで南部領」といわれる広大な版図を築いた。
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南部 |
晴政 |
35 | 79 | 36 |
42 | 29 |
66 |
通常版 | 1532 |
突撃・2 |
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おやま | あきなが |
武士 | 神仏 | 30 |
(1557-1586)葛西家臣。柏山明吉の三男。小山城主。弟・折居明久とともに領内屈指の荒武者といわれる。1581年の柏山家内乱の際には家老・三田将監を殺害した。
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小山 |
明長 |
8 | 54 | 48 |
35 | 29 |
76 |
通常版 | 1572 |
突撃・1 |
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にいだ | たかかげ |
武士 | 神仏 | 21 |
(1573-1593)大崎家臣。新井田城主。義隆の小姓を務めた。家中屈指の美少年で、同じく小姓の伊場野惣八郎と寵を争い、これがきっかけで大崎家の内乱が引き起こされた。
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新井田 |
隆景 |
45 | 27 | 47 |
46 | 29 |
96 |
通常版 | 1588 |
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もがみ | よしただ |
武士 | 神仏 | 77 |
(1588-1664)最上家臣。最上義光の四男。甥・義俊に代わる当主候補に推される。しかしこれが御家騒動を招き、主家は改易された。のちに水戸徳川家に仕え家老を務めた。
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最上 |
義忠 |
50 | 39 | 52 |
51 | 29 |
99 |
通常版 | 1603 |
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まかべ | うじもと |
剣豪 | 神仏 | 73 |
(1550-1622)常陸の豪族。真壁城主。佐竹家に従う。刀槍の代わりに約一丈の木杖を振り回して武勇を示し「鬼真壁」と恐れられた。のちに佐竹家の秋田転封に従った。
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真壁 |
氏幹 |
6 | 72 | 32 |
20 | 29 |
16 |
通常版 | 1565 |
槍衾・1 |
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さとみ | よしより |
武士 | 神仏 | 45 |
(1543-1587)房総の戦国大名。義堯の次男。里見梅王丸(兄・義弘の子)に出家を強要し、家督を継ぐ。この一件に憤激し謀叛を起こした正木憲時を討ち、上総を平定した。
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里見 |
義頼 |
43 | 54 | 66 |
46 | 29 |
31 |
通常版 | 1558 |
斉射・1 |
破壊 |
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みながわ | ひろてる |
国人 | 神仏 | 80 |
(1548-1627)下野の豪族。皆川城主。俊宗の子。北条家滅亡時に徳川家康に降る。のちに家康の六男・松平忠輝の付家老となったが、忠輝の不行跡を訴えて逆に改易された。
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皆川 |
広照 |
59 | 32 | 54 |
36 | 29 |
61 |
通常版 | 1563 |
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うえすぎ | のりまさ |
高家 | 神仏 | 57 |
(1523-1579)山内上杉家20代当主。河越合戦に敗れて勢力を失い、北条軍に追われ越後に逃走。長尾景虎に上杉姓と関東管領職を譲った。御館の乱で上杉景勝に殺された。
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上杉 |
憲政 |
24 | 18 | 17 |
69 | 29 |
37 |
通常版 | 1531 |
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とくがわ | ひでただ |
武士 | 神仏 | 54 |
(1579-1632)家康の三男。関ヶ原合戦の際、中山道からの進軍を真田昌幸に阻まれ、父の不興を買う。しかし、凡庸篤実な人柄を父に見込まれ、江戸幕府2代将軍となった。
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徳川 |
秀忠 |
75 | 18 | 81 |
61 | 29 |
78 |
通常版 | 1594 |
収拾 |
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