武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
たがや | しげつね |
国人 | 神仏 | 61 |
(1558-1618)結城家臣。下妻城主。政経の子。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。関ヶ原合戦で西軍に属したため改易され、放浪の末近江彦根で死去した。
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多賀谷 |
重経 |
35 | 51 | 54 |
50 | 22 |
37 |
通常版 | 1573 |
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うえすぎ | のりまさ |
高家 | 神仏 | 57 |
(1523-1579)山内上杉家20代当主。河越合戦に敗れて勢力を失い、北条軍に追われ越後に逃走。長尾景虎に上杉姓と関東管領職を譲った。御館の乱で上杉景勝に殺された。
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上杉 |
憲政 |
24 | 18 | 17 |
69 | 29 |
37 |
通常版 | 1531 |
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ながの | なりまさ |
重臣 | 神仏 | 71 |
(1491-1561)山内上杉家臣。主家滅亡後も居城・箕輪城を守り、武田信玄の侵攻を6度に渡って撃退した。「業正がいる限り、上州には手は出せぬ」と信玄を嘆かせた智将。
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長野 |
業正 |
36 | 86 | 80 |
60 | 96 |
37 |
通常版 | 1506 |
槍衾・3 |
鉄壁 |
混乱 |
ながの | なりもり |
重臣 | 神仏 | 18 |
(1546-1563)山内上杉家臣。箕輪城主。業正の子。父の死後、家督相続。上野攻略を企む武田軍に徹底抗戦を挑み、死者1千6百余、負傷数千という損害を与え、自害した。
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長野 |
業盛 |
27 | 63 | 49 |
48 | 92 |
37 |
通常版 | 1561 |
突撃・1 |
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おばた | のぶさだ |
国人 | 神仏 | 52 |
(1541-1592)武田家臣。憲重の子。西上野先方衆の主力として活躍した。主家の滅亡後は北条家に仕え、北条家滅亡後は上田城主・真田昌幸のもとに赴き、庇護を受けた。
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小幡 |
信貞 |
27 | 49 | 36 |
45 | 47 |
37 |
通常版 | 1556 |
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ながお | のりかげ |
武士 | 神仏 | 73 |
(1511-1583)山内上杉家臣。惣社長尾家の出身で、白井長尾家当主・景誠が殺されたため、その遺跡を継いだ。主家滅亡後は上杉謙信に仕え、謙信の死後は北条家に属した。
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長尾 |
憲景 |
51 | 36 | 55 |
49 | 41 |
37 |
通常版 | 1526 |
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かんべ | とももり |
武士 | 神仏 | 75 |
(1526-1600)伊勢の豪族。神戸城主。織田信孝(信長の子)を養子とする。のちに信長により日野城に幽閉されるが、信孝が四国へ出陣する際、許されて留守居役を務めた。
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神戸 |
具盛 |
32 | 24 | 29 |
48 | 35 |
37 |
通常版 | 1541 |
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ながの | たねふじ |
国人 | 神仏 | 59 |
(1504-1562)長野工藤家14代当主。長野工藤家は、北畠家・関家らとともに勢州四家の一に数えられる。中伊勢をめぐって、北畠家と抗争、あるいは共闘を繰り返した。
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長野 |
稙藤 |
58 | 45 | 52 |
54 | 49 |
37 |
通常版 | 1519 |
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こづくり | ともまさ |
高家 | 神仏 | 55 |
(1530-1584)北畠家臣。北畠晴具の子。木造家を継いだ。兄・具教に背いて織田信長の軍に降る。その後は織田信雄に属し、小牧長久手合戦では蒲生氏郷軍と戦うが敗れた。
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木造 |
具政 |
51 | 45 | 55 |
54 | 20 |
37 |
通常版 | 1545 |
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こづくり | ながまさ |
高家 | 神仏 | 51 |
(1554-1604)織田家臣。木造城主。具政の子。主君・信雄の改易後は織田秀信の家老となる。関ヶ原合戦では秀信に東軍加担を説くが失敗した。戦後は福島正則に仕えた。
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木造 |
長正 |
54 | 28 | 39 |
51 | 61 |
37 |
通常版 | 1569 |
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