武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
いたべおか | こうせつさい |
僧侶 | 神仏 | 73 |
(1537-1609)北条家臣。右筆・評定衆を務めた。徳川家康との講和交渉や、豊臣秀吉との折衝など、対外交渉に手腕を発揮した。主家滅亡後は、秀吉に御咄衆として仕えた。
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板部岡 |
江雪斎 |
72 | 2 | 73 |
77 | 33 |
87 |
通常版 | 1552 |
収拾 |
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くの | むねよし |
武士 | 神仏 | 83 |
(1527-1609)今川家臣。久能城主。主家滅亡の直前に徳川家臣・高力清長の仲介により徳川家康に属す。家康の関東入国時に佐倉城主となるが、のちに久能城に復帰した。
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久能 |
宗能 |
53 | 43 | 57 |
42 | 33 |
17 |
通常版 | 1542 |
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やまぐち | しげまさ |
国人 | 神仏 | 72 |
(1564-1635)徳川家臣。はじめ織田家臣・佐久間信栄に仕える。信栄失脚後は織田信雄に仕え信雄改易後、家康の招きを受けた。しかし、のちに家康の勘気を受け蟄居した。
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山口 |
重政 |
19 | 27 | 44 |
42 | 33 |
81 |
通常版 | 1579 |
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とよとみ | ひでつぐ |
庶民 | 神仏 | 28 |
(1568-1595)豊臣家臣。豊臣秀吉の義兄・三好吉房の子。秀吉から関白職を譲られるが、のちに「殺生関白」と呼ばれるほどの乱行を振るまい、謀叛の罪で自害させられた。
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豊臣 |
秀次 |
29 | 30 | 14 |
40 | 33 |
09 |
通常版 | 1583 |
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とくなが | ながまさ |
武士 | 神仏 | 64 |
(1549-1612)柴田家臣。賤ヶ岳合戦の際、主君・勝豊とともに豊臣秀吉の傘下に入る。秀吉の死後、朝鮮に渡って全軍に撤退命令を伝えた。関ヶ原合戦では東軍に属した。
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徳永 |
寿昌 |
57 | 22 | 61 |
52 | 33 |
91 |
通常版 | 1564 |
鼓舞 |
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きそ | よしまさ |
国人 | 神仏 | 56 |
(1540-1595)信濃木曾谷の豪族。義康の嫡男。武田信玄の娘を娶る。のち織田信長に通じ、武田家滅亡の原因を作った。本能寺の変後は徳川家康に属し、下総に転封された。
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木曾 |
義昌 |
46 | 54 | 54 |
49 | 33 |
81 |
通常版 | 1555 |
突撃・1 |
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えど | ただみち |
国人 | 神仏 | 58 |
(1507-1564)常陸の豪族。水戸城主。通泰の子。はじめ佐竹義篤に従うが、義篤の死後、義昭が家督を継ぐと敵対し抗争を繰り返す。のちに和睦し、再び佐竹家に従属した。
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江戸 |
忠通 |
54 | 59 | 48 |
49 | 34 |
22 |
通常版 | 1522 |
槍衾・1 |
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うえだ | のりさだ |
国人 | 神仏 | 60 |
(1536-1595)北条家臣。朝直の次男。父や兄・長則と同じく、松山城の城下町経営に努めた。豊臣秀吉の小田原征伐に際して小田原城に籠城し、落城後、行方不明となった。
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上田 |
憲定 |
58 | 22 | 30 |
50 | 34 |
12 |
通常版 | 1551 |
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ふじかた | やすまさ |
武士 | 神仏 | 52 |
(1571-1622)織田家臣。朝成の子。はじめ織田信包に仕え、信包改易後は豊臣秀次に仕える。秀次事件の後、徳川家康に招かれ下総で5百石を賜る。以後は徳川家に仕えた。
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藤方 |
安正 |
33 | 37 | 44 |
38 | 34 |
67 |
通常版 | 1586 |
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つだ | しげひさ |
武士 | 神仏 | 86 |
(1549-1634)細川家臣。主家の滅亡後は、三好家や足利将軍家などを経て明智光秀に仕え、山崎合戦に従軍した。光秀の死後は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳合戦などに従軍した。
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津田 |
重久 |
28 | 32 | 50 |
45 | 34 |
51 |
通常版 | 1564 |
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あかまつ | はるまさ |
高家 | 神仏 | 53 |
(1513-1565)播磨守護。家臣・浦上村宗に傀儡とされる。のち細川晴元と通じ、大物崩れの戦いで村宗を討つが、尼子晴久に攻撃されるなど、領国経営は名のみであった。
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赤松 |
晴政 |
26 | 14 | 24 |
32 | 34 |
69 |
通常版 | 1528 |
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くまがい | もとなお |
国人 | 基督教 | 51 |
(1555-1605)毛利家臣。信直の孫。各地の合戦に従軍して活躍した。黒田孝高の影響を受けて切支丹となる。のちに主君・輝元の改宗命令を拒否し、一族全員死罪となった。
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熊谷 |
元直 |
36 | 35 | 21 |
48 | 34 |
41 |
通常版 | 1570 |
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いちかわ | つねよし |
武士 | 神仏 | 59 |
(1526-1584)吉川家臣。父・吉川経世とともに毛利元就の次男・元春の吉川家相続に尽力。のち毛利家に属す。大内家滅亡後は山口奉行を務め、防長両国の庶政を担当した。
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市川 |
経好 |
61 | 29 | 63 |
58 | 34 |
38 |
通常版 | 1541 |
収拾 |
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きたのがわ | ちかやす |
武士 | 神仏 | 50 |
(1534-1583)西園寺家臣。三滝城主。西園寺十五将の1人。長宗我部家臣・波川玄蕃の娘を娶ったが、のちに玄蕃が謀叛を企てたため長宗我部元親の攻撃を受け、敗死した。
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北之川 |
親安 |
45 | 39 | 37 |
40 | 34 |
52 |
通常版 | 1549 |
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くもん | しげただ |
国人 | 神仏 | 60 |
(1518-1577)土佐の豪族。徳善城主。はじめ長宗我部国親と戦うが、のちに家臣となり各地の合戦で活躍した。勇将であったが貧乏で正月の餅つきができなかったという。
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公文 |
重忠 |
1 | 53 | 46 |
35 | 34 |
26 |
通常版 | 1533 |
槍衾・1 |
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しが | ちかもり |
武士 | 神仏 | 85 |
(1514-1598)大友家臣。豊後岡城主。肥後方分を務めた。耳川合戦の際は消極的行動を取り、大友軍大敗の原因を作った。主君・義統が朝鮮派兵に従った際は豊後に残った。
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志賀 |
親守 |
57 | 36 | 54 |
55 | 34 |
80 |
通常版 | 1529 |
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きのした | まさなお |
武士 | 神仏 | 87 |
(1524-1610)龍造寺家臣。龍造寺四天王の1人といわれる。沖田畷合戦で主君・隆信戦死の報を聞くと、鍋島直茂を離脱させたのち、敵陣に突入した。生死は諸説あり不明。
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木下 |
昌直 |
16 | 72 | 45 |
56 | 34 |
62 |
通常版 | 1539 |
槍衾・1 |
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ありま | はるずみ |
守護 | 神仏 | 84 |
(1483-1566)肥前の豪族。日野江城主。島原半島を中心に勢力を拡大、有馬家最大の版図を築く。また大村家に次男・純忠を入嗣させて和睦、安定した支配体制を確立した。
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有馬 |
晴純 |
76 | 72 | 60 |
67 | 34 |
24 |
通常版 | 1498 |
槍衾・1 |
挑発 |
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あしな | もりたか |
武士 | 神仏 | 24 |
(1561-1584)蘆名家18代当主。二階堂盛義の子。蘆名盛興の未亡人を娶った。上杉・北条家らと結んで佐竹家と争った。寵の衰えを逆恨みした側近に黒川城内で殺された。
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蘆名 |
盛隆 |
50 | 57 | 45 |
48 | 35 |
45 |
通常版 | 1576 |
突撃・1 |
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こおり | さだなが |
武士 | 神仏 | 53 |
(1517-1569)伊達家臣。播磨守と称す。主君・晴宗が奥州探題となった際、牧野久仲とともに奥州守護代となった。これに対して鷹や馬、および黄金30両などを進上した。
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桑折 |
貞長 |
72 | 39 | 70 |
55 | 35 |
70 |
通常版 | 1532 |
鼓舞 |
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