武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
さとう | よしのぶ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1514-1563)相馬家臣。佐藤家はもと岩城家臣であったが、好信の代に相馬家に属す。軍奉行を務めたが、郡左馬助の讒言により領地を没収され、失意のうちに病死した。
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佐藤 |
好信 |
63 | 37 | 34 |
38 | 53 |
38 |
通常版 | 1529 |
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さとう | ためのぶ |
武士 | 神仏 | 49 |
(1543-1591)相馬家臣。好信の子。小斎城主。伊達家との合戦の際、援軍に来た郡左馬助を討ち、父の敵をとる。直後に伊達家に属した。のちに佐沼の戦いで戦死した。
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佐藤 |
為信 |
40 | 49 | 56 |
44 | 27 |
38 |
通常版 | 1558 |
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おばた | のりしげ |
国人 | 神仏 | 54 |
(1522-1575)山内上杉家臣。妻は長野業正の妹。一族の謀叛により流浪、武田信玄に属す。信玄の上野攻略に貢献、西上野先方衆筆頭となった。長篠合戦で戦死したという。
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小幡 |
憲重 |
14 | 65 | 66 |
50 | 81 |
38 |
通常版 | 1537 |
突撃・1 |
挑発 |
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おおた | さんらくさい |
重臣 | 神仏 | 70 |
(1522-1591)扇谷上杉家臣。岩付城主。資頼の次男。主家滅亡後は上杉家や佐竹家に属し、生涯を通じて北条家と戦った。豊臣秀吉の小田原征伐では、秀吉の本陣を訪れた。
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太田 |
三楽斎 |
45 | 76 | 62 |
54 | 86 |
38 |
通常版 | 1537 |
槍衾・2 |
挑発 |
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かじわら | まさかげ |
重臣 | 神仏 | 76 |
(1548-1623)佐竹家臣。太田資正の次男。手這坂の合戦で小田氏治を破り、小田城主となる。主家の秋田転封に従ったが、のちに越前福井藩主・結城秀康のもとに転仕した。
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梶原 |
政景 |
44 | 54 | 46 |
35 | 37 |
38 |
通常版 | 1563 |
突撃・1 |
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あしかが | よしてる |
高家 | 神仏 | 30 |
(1536-1565)室町幕府13代将軍。上泉信綱より新陰流の奥義を伝授される。失われた幕府権力の回復に奔走するが、のちに松永久秀らに奇襲され、孤軍奮闘の末自害した。
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足利 |
義輝 |
50 | 72 | 22 |
72 | 79 |
38 |
通常版 | 1551 |
槍衾・2 |
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のみ | むねかつ |
海賊 | 神仏 | 66 |
(1527-1592)毛利家臣。小早川水軍を統率した。厳島合戦の際は村上水軍を味方に引き入れ、毛利軍の勝利に貢献した。木津川口合戦では総大将を務め、織田水軍を破った。
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乃美 |
宗勝 |
18 | 54 | 51 |
38 | 59 |
38 |
通常版 | 1542 |
斉射・1 |
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みなかた | なりまさ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1540-1599)毛利家臣。周防右田岳城主。大友宗麟の援助を得た大内輝弘が、大内家旧臣を糾合して周防で叛乱を起こした際、防府に退却する輝弘軍を追撃、これを討った。
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南方 |
就正 |
38 | 46 | 49 |
43 | 50 |
38 |
通常版 | 1555 |
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いちかわ | つねよし |
武士 | 神仏 | 59 |
(1526-1584)吉川家臣。父・吉川経世とともに毛利元就の次男・元春の吉川家相続に尽力。のち毛利家に属す。大内家滅亡後は山口奉行を務め、防長両国の庶政を担当した。
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市川 |
経好 |
61 | 29 | 63 |
58 | 34 |
38 |
通常版 | 1541 |
収拾 |
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たきの | よしまさ |
忍者 | 神仏 | 50 |
(1553-1602)伊賀の豪族。柏原城主。貞清の子。織田信長の伊賀侵攻軍に対して、国内の豪族連合軍を率いて頑強に抵抗したが敗れ、戦後、筒井順慶に居城を明け渡した。
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滝野 |
吉政 |
28 | 54 | 63 |
21 | 56 |
38 |
PK追加 | 1568 |
槍衾・1 |
混乱 |
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