武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
てらさき | もりなが |
国人 | 神仏 | 37 |
(1545-1581)越中の豪族。願海寺城主。早くから神保家に仕え、敵対勢力を討つなど活躍。のち織田家に属すが、上杉家に寝返ったため攻撃を受け敗北し、自害させられた。
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寺崎 |
盛永 |
21 | 42 | 30 |
26 | 37 |
74 |
通常版 | 1560 |
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うおずみ | かげかた |
武士 | 神仏 | 44 |
(1531-1574)朝倉家臣。一乗谷四奉行の1人として国政に参画した。織田信長の越前侵攻軍に降り、本領を安堵され越前守護代となるが、富田長繁の攻撃を受けて敗死した。
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魚住 |
景固 |
60 | 15 | 28 |
54 | 37 |
53 |
通常版 | 1546 |
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やまざき | かたいえ |
国人 | 神仏 | 45 |
(1547-1591)六角家臣。山崎城主。主君・義治と不和になり、織田信長に仕える。本能寺の変後は一時明智光秀に属すが、のち豊臣秀吉に仕え摂津三田2万3千石を領した。
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山崎 |
片家 |
33 | 40 | 44 |
44 | 37 |
32 |
通常版 | 1562 |
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なかむら | はるつぐ |
武士 | 神仏 | 53 |
(1529-1581)山名家臣。羽柴秀吉に降伏した主君・豊国を鳥取城から追い、毛利家より吉川経家を城主に招いた。しかし、秀吉の「渇え殺し」戦法によって敗れ、自害した。
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中村 |
春続 |
37 | 44 | 63 |
45 | 37 |
84 |
通常版 | 1544 |
収拾 |
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くわやま | しげはる |
武士 | 神仏 | 83 |
(1524-1606)豊臣家臣。賤ヶ岳合戦では豊臣軍の本陣を守り、勝利に貢献する。のちに豊臣秀長に仕え、和歌山城の城代となって3万石を領した。千利休に茶の湯を学んだ。
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桑山 |
重晴 |
51 | 39 | 47 |
68 | 37 |
02 |
PK追加 | 1539 |
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ありま | とようじ |
武士 | 神仏 | 74 |
(1569-1642)豊臣家臣。則頼の嫡男。秀吉の死後は徳川家康に属し、関ヶ原合戦、大坂の両陣で戦功を立て、筑後久留米21万石を領した。島原の乱の鎮圧にも功を立てた。
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有馬 |
豊氏 |
58 | 41 | 40 |
73 | 37 |
49 |
PK追加 | 1584 |
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こくぶん | もりうじ |
国人 | 神仏 | 70 |
(1506-1575)陸奥の豪族。能登守と称した。1189年、源頼朝が陸奥平泉の藤原家を滅ぼした際に、焼け落ちて名前だけが残っていた国分尼寺を、1570年に再建した。
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国分 |
盛氏 |
45 | 32 | 25 |
48 | 38 |
67 |
通常版 | 1521 |
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あしかが | はるうじ |
高家 | 神仏 | 53 |
(1508-1560)古河公方。高基の子。足利家の一門として関東武士の間に根強い支持があり、北条家も懐柔に注意を払った。のち北条家に反抗したため、小田原に幽閉された。
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足利 |
晴氏 |
46 | 28 | 27 |
72 | 38 |
36 |
通常版 | 1523 |
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まさき | よりただ |
武士 | 神仏 | 72 |
(1551-1622)里見家臣。時忠の子。父が北条家に属した際、人質となる。兄・時通の死後、居城・勝浦城に戻った。主家改易後は、紀伊徳川家に仕える子・為春を頼った。
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正木 |
頼忠 |
52 | 42 | 48 |
41 | 38 |
28 |
通常版 | 1566 |
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いしかわ | かずまさ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1533-1592)徳川家臣。家老を務め、西三河衆を率いて活躍した。小牧長久手合戦の後、豊臣家へ出奔。そのため、徳川家は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。
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石川 |
数正 |
76 | 51 | 72 |
70 | 38 |
96 |
通常版 | 1548 |
斉射・1 |
挑発 |
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いなば | さだみち |
武士 | 神仏 | 58 |
(1546-1603)織田家臣。一鉄の長男。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では織田秀信に従い西軍に属すが、のち東軍に降伏。戦後、豊後臼杵5万石を領した。
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稲葉 |
貞通 |
50 | 48 | 37 |
50 | 38 |
95 |
通常版 | 1561 |
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しばた | つなさだ |
国人 | 神仏 | 50 |
(1512-1561)上杉家臣。新発田・五十公野城主。伯耆守と称した。上条定憲が長尾為景と戦った乱の際は、はじめ長尾方に属したが、のちに上条方に転じて長尾軍と戦った。
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新発田 |
綱貞 |
64 | 35 | 67 |
60 | 38 |
89 |
通常版 | 1527 |
鼓舞 |
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たいのしょう | これよし |
国人 | 神仏 | 58 |
(1518-1575)山名家臣。鶴城主。田結庄家は山名四天王の一。織田家への従属を唱え、毛利家への接近をはかる垣屋続成と対立。続成を討つが、続成の子・光成に討たれた。
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田結庄 |
是義 |
36 | 38 | 57 |
53 | 38 |
89 |
通常版 | 1533 |
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さは | たかひで |
国人 | 神仏 | 75 |
(1522-1596)石見の豪族。はじめ大内家に属す。主家滅亡後は毛利家に仕え、石見平定戦で活躍した。主君・輝元の朝鮮出陣の際は、輝元の居城・広島城の留守居を務めた。
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佐波 |
隆秀 |
43 | 40 | 52 |
47 | 38 |
47 |
通常版 | 1537 |
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といだ | たかもり |
武士 | 神仏 | 43 |
(1513-1555)大内家臣。石見守護代を務めた。陶晴賢の謀叛では晴賢に同調し、主家を継いだ義長に仕えた。晴賢の居城・若山城に滞在中に杉重輔の襲撃を受け、戦死した。
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問田 |
隆盛 |
55 | 27 | 47 |
53 | 38 |
65 |
通常版 | 1528 |
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くぼかわ | としみつ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1530-1579)土佐一条家臣。串山城主。高岡郡窪川郷を本拠とし、山内から窪川に改姓した。のちに長宗我部元親に属す。久武親直に従って南伊予地方を攻略中に戦死した。
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窪川 |
俊光 |
28 | 45 | 24 |
29 | 38 |
90 |
通常版 | 1545 |
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さいき | これのり |
武士 | 神仏 | 55 |
(1524-1578)大友家臣。二階崩れの変の際は、主君・宗麟を奉じて変を鎮圧した。一時西園寺家に仕えるが、のち帰参。宗麟の命で日向に進出するが、耳川合戦で戦死した。
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佐伯 |
惟教 |
32 | 50 | 47 |
47 | 38 |
90 |
通常版 | 1539 |
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あそう | もとしげ |
国人 | 神仏 | 50 |
(1543-1592)筑前の豪族。山鹿城主。麻生家は遠賀郡山鹿の地頭職を務めた宇都宮家政を祖とする宇都宮家の庶流。豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、のちに筑後へ移封された。
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麻生 |
元重 |
38 | 27 | 51 |
40 | 38 |
33 |
通常版 | 1558 |
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まつら | たかのぶ |
海賊 | 神仏 | 71 |
(1529-1599)肥前の豪族。平戸城主。興信の子。平戸港を拠点として南蛮貿易を行う。豊富な資金力を背景に勢力を拡大するが、のちに龍造寺隆信に敗れ、隆信に従属した。
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松浦 |
隆信 |
75 | 47 | 55 |
65 | 38 |
22 |
通常版 | 1544 |
斉射・1 |
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ありま | はるのぶ |
守護 | 基督教 | 46 |
(1567-1612)肥前の豪族。日野江城主。義貞の次男。兄・義純の死後、家督相続。島津家と結び勢力の回復をはかる。のち岡本大八事件を起こし、甲斐で斬罪に処せられた。
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有馬 |
晴信 |
59 | 48 | 28 |
50 | 38 |
21 |
通常版 | 1576 |
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