武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
まさき | ときただ |
武士 | 神仏 | 59 |
(1518-1576)里見家臣。勝浦城主。兄・時茂とともに多くの合戦で戦功を立てる。第二次国府台合戦ののち、正木家の存続を優先して北条家に寝返ったが、のちに帰参した。
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正木 |
時忠 |
42 | 52 | 54 |
44 | 26 |
28 |
通常版 | 1533 |
槍衾・1 |
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まさき | よりただ |
武士 | 神仏 | 72 |
(1551-1622)里見家臣。時忠の子。父が北条家に属した際、人質となる。兄・時通の死後、居城・勝浦城に戻った。主家改易後は、紀伊徳川家に仕える子・為春を頼った。
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正木 |
頼忠 |
52 | 42 | 48 |
41 | 38 |
28 |
通常版 | 1566 |
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まさき | ためはる |
武士 | 神仏 | 80 |
(1573-1652)里見家臣。頼忠の子。甥・徳川頼宣(実妹・お万の方の子)が紀伊和歌山藩主となった際、家老として紀伊に赴いた。晩年には仮名草子「あだ物語」を著した。
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正木 |
為春 |
58 | 27 | 44 |
62 | 52 |
28 |
通常版 | 1588 |
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おおの | なおしげ |
武士 | 神仏 | 57 |
(1534-1590)河野家臣。大除城主。土佐一条家や毛利家などが河野領に攻め入った際は、これを撃退した。豊臣秀吉の四国征伐軍に降り、主君・通直に従い安芸に移住した。
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大野 |
直昌 |
42 | 63 | 48 |
39 | 83 |
28 |
通常版 | 1549 |
突撃・1 |
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しょうに | ふゆひさ |
高家 | 神仏 | 31 |
(1529-1559)少弐家17代当主。資元の子。龍造寺家兼の一族を殺し、東肥前の領主の後援を得て勢力回復をはかるが、再起した家兼の曾孫・隆信の軍勢に敗れ、自害した。
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少弐 |
冬尚 |
49 | 23 | 48 |
63 | 21 |
28 |
通常版 | 1544 |
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えがみ | たけたね |
武士 | 神仏 | 50 |
(1526-1575)少弐家臣。肥前勢福寺城主。龍造寺隆信の家督相続に反対した東肥前十九将の1人。龍造寺家臣・小田政光を討つなど活躍したが、のちに龍造寺家臣となった。
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江上 |
武種 |
20 | 66 | 62 |
44 | 77 |
28 |
通常版 | 1541 |
突撃・1 |
挑発 |
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くましろ | かつとし |
僧侶 | 神仏 | 55 |
(1511-1565)少弐家臣。肥前三瀬城主。「北山に枕し南海に足を浸す」という夢を買い取り、武運に恵まれる。龍造寺家臣・小田政光を討つなど、終生龍造寺家に対抗した。
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神代 |
勝利 |
45 | 69 | 70 |
65 | 71 |
28 |
通常版 | 1526 |
槍衾・1 |
混乱 |
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くましろ | ながよし |
僧侶 | 神仏 | 48 |
(1537-1584)少弐家臣。勝利の嫡男。父の隠居により家督を継ぐ。父の死後は龍造寺家と和睦し、家臣となった。のちに小川信俊(鍋島直茂の弟)の子・家良を養子とした。
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神代 |
長良 |
53 | 41 | 32 |
53 | 39 |
28 |
通常版 | 1552 |
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やまだ | ありのぶ |
武士 | 神仏 | 66 |
(1544-1609)島津家臣。各地の合戦で活躍した。伊東家の滅亡後、日向高城主となる。耳川合戦の際は少数の兵で大友家の大軍から居城を守り抜き、主家の勝利に貢献した。
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山田 |
有信 |
26 | 57 | 69 |
56 | 79 |
28 |
通常版 | 1559 |
斉射・1 |
挑発 |
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やまだ | ありなが |
武士 | 神仏 | 91 |
(1578-1668)島津家臣。有信の嫡男。伊集院忠真の謀叛鎮圧や関ヶ原合戦などで抜群の戦功を立てた。出水地頭を務め、家臣教育や産業開発などにも尽力した知勇兼備の将。
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山田 |
有栄 |
63 | 53 | 61 |
63 | 69 |
28 |
通常版 | 1593 |
斉射・1 |
鼓舞 |
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