武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
おのでら | てるみち |
武士 | 神仏 | 64 |
(1534-1597)小野寺家13代当主。惟道の嫡男。父の死後、一時大宝寺家を頼るが、のちに仇敵・大和田光盛らを滅ぼし、横手城に復帰。小野寺家の全盛時代を築き上げた。
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小野寺 |
輝道 |
52 | 60 | 63 |
61 | 55 |
49 |
通常版 | 1549 |
斉射・1 |
挑発 |
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なかがわ | きよひで |
国人 | 神仏 | 42 |
(1542-1583)池田家臣。茨木城主。和田惟政を討つなど活躍した。のち荒木村重に属す。村重の逃亡後は羽柴秀吉に属し、山崎合戦で戦功を立てた。賤ヶ岳合戦で戦死した。
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中川 |
清秀 |
12 | 43 | 17 |
19 | 44 |
49 |
通常版 | 1557 |
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さがら | はるひろ |
武士 | 神仏 | 43 |
(1513-1555)肥後の戦国大名。古麓城主。上村頼興の子。相良義滋の養子となり家督を継ぐ。対明貿易を行う。また分国法「相良氏法度」を制定し、支配力の強化に努めた。
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相良 |
晴広 |
61 | 48 | 54 |
57 | 38 |
49 |
通常版 | 1528 |
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さがら | よしひ |
武士 | 神仏 | 38 |
(1544-1581)肥後の戦国大名。人吉城主。晴広の子。祖父・上村頼興の後見を受ける。2度の内乱を乗り切って領国を拡大するが島津家に降り、阿蘇家との戦いで戦死した。
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相良 |
義陽 |
57 | 64 | 56 |
59 | 91 |
49 |
通常版 | 1559 |
突撃・1 |
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さがら | よりふさ |
武士 | 神仏 | 63 |
(1574-1636)肥後人吉藩主。義陽の次男。兄・忠房の夭逝により家督を継ぐ。豊臣秀吉の九州征伐軍に降伏した。関ヶ原合戦では美濃大垣城で東軍に内応し、所領を保った。
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相良 |
頼房 |
53 | 47 | 62 |
54 | 46 |
49 |
通常版 | 1589 |
挑発 |
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ふかみ | ながとも |
重臣 | 神仏 | 60 |
(1531-1590)相良家臣。戦死した主君・義陽の子・忠房の地位を島津家に認めさせ、肥後国人一揆の際は上坂して誤解を解くなど、外交面で活躍し、主家の存続に尽力した。
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深水 |
長智 |
74 | 33 | 69 |
72 | 87 |
49 |
通常版 | 1546 |
混乱 |
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おのでら | よしみち |
武士 | 神仏 | 80 |
(1566-1645)小野寺家14代当主。輝道の次男。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して、所領を安堵される。関ヶ原合戦では徳川家の出陣要請を無視したため、戦後改易された。
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小野寺 |
義道 |
24 | 54 | 5 |
39 | 36 |
49 |
PK追加 | 1581 |
突撃・1 |
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ありま | のりより |
武士 | 神仏 | 70 |
(1533-1602)播磨の豪族。重則の子。豊臣秀吉に仕え九州征伐、朝鮮派兵などに従軍。秀吉の死後は徳川家康に仕えて関ヶ原合戦に従軍し、戦後、摂津三田3万石を領した。
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有馬 |
則頼 |
62 | 32 | 47 |
49 | 28 |
49 |
PK追加 | 1548 |
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ありま | とようじ |
武士 | 神仏 | 74 |
(1569-1642)豊臣家臣。則頼の嫡男。秀吉の死後は徳川家康に属し、関ヶ原合戦、大坂の両陣で戦功を立て、筑後久留米21万石を領した。島原の乱の鎮圧にも功を立てた。
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有馬 |
豊氏 |
58 | 41 | 40 |
73 | 37 |
49 |
PK追加 | 1584 |
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