武将姓 | 武将名 | 出自 | 信心 | 寿命 | (生年-没年) | |||
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 | 教養 | 義理 | 相性 | 列伝 |
さがら | はるひろ | 武士 | 神仏 | 43 | (1513-1555)肥後の戦国大名。古麓城主。上村頼興の子。相良義滋の養子となり家督を継ぐ。対明貿易を行う。また分国法「相良氏法度」を制定し、支配力の強化に努めた。 | |||
相良 | 晴広 | 61 | 48 | 54 | 57 | 38 | 49 | |
通常版 | 1528 | |||||||
さがら | よしひ | 武士 | 神仏 | 38 | (1544-1581)肥後の戦国大名。人吉城主。晴広の子。祖父・上村頼興の後見を受ける。2度の内乱を乗り切って領国を拡大するが島津家に降り、阿蘇家との戦いで戦死した。 | |||
相良 | 義陽 | 57 | 64 | 56 | 59 | 91 | 49 | |
通常版 | 1559 | 突撃・1 | ||||||
さがら | よりふさ | 武士 | 神仏 | 63 | (1574-1636)肥後人吉藩主。義陽の次男。兄・忠房の夭逝により家督を継ぐ。豊臣秀吉の九州征伐軍に降伏した。関ヶ原合戦では美濃大垣城で東軍に内応し、所領を保った。 | |||
相良 | 頼房 | 53 | 47 | 62 | 54 | 46 | 49 | |
通常版 | 1589 | 挑発 | ||||||
うえむら | よりおき | 武士 | 神仏 | 68 | (1490-1557)相良家臣。肥後上村城主。子・晴広を継嗣とする約束で主君・義滋に協力する。義滋政権の陰の実力者として、その実現と存続のために義兄や実弟を謀殺した。 | |||
上村 | 頼興 | 60 | 38 | 76 | 65 | 27 | 55 | |
通常版 | 1505 | 混乱 |