武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
はが | やすただ |
武士 | 神仏 | 54 |
(1542-1595)北条家臣。氏続の弟。評定衆。越相同盟締結の際に使者を務め、厩橋城代として東上野を治めるなど、内政・外交面で活躍した。主家滅亡後は伊豆に隠棲した。
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垪和 |
康忠 |
56 | 26 | 58 |
60 | 66 |
90 |
通常版 | 1557 |
鼓舞 |
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いい | なおまさ |
武士 | 神仏 | 42 |
(1561-1602)徳川家臣。徳川四天王の1人。軍装を赤で統一した軍兵は「赤鬼」と恐れられ、常に先鋒を争った。関ヶ原合戦では島津軍を追撃し、島津豊久を討ち取った。
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井伊 |
直政 |
69 | 81 | 64 |
62 | 75 |
90 |
通常版 | 1576 |
突撃・2 |
神速 |
挑発 |
とくがわ | いえやす |
武士 | 神仏 | 75 |
(1542-1616)江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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徳川 |
家康 |
90 | 85 | 84 |
72 | 85 |
90 |
通常版 | 1557 |
突撃・2 |
神速 |
鼓舞 |
まつだいら | のぶやす |
武士 | 神仏 | 21 |
(1559-1579)徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。剛勇英邁の人となりで、将来を嘱望されるが、のちに信長から武田家への内通を疑われ、父の命により自害した。
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松平 |
信康 |
45 | 75 | 53 |
60 | 80 |
90 |
通常版 | 1574 |
突撃・1 |
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ほんだ | ただかつ |
武士 | 神仏 | 63 |
(1548-1610)徳川家臣。徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と評された家中随一の猛将。名槍・蜻蛉切を手に57度の合戦に参陣し、傷一つ負わなかったという。
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本多 |
忠勝 |
54 | 84 | 66 |
48 | 94 |
90 |
通常版 | 1563 |
突撃・2 |
鉄壁 |
挑発 |
ほんだ | まさのぶ |
武士 | 一向宗 | 79 |
(1538-1616)徳川家臣。三河一向一揆に身を投じて主家を離反、諸国を放浪したのちに帰参。行政と謀略に優れた手腕を発揮した。主君・家康には「友」と呼ばれたという。
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本多 |
正信 |
85 | 18 | 90 |
77 | 53 |
90 |
通常版 | 1553 |
混乱 |
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さかきばら | やすまさ |
武士 | 神仏 | 59 |
(1548-1606)徳川家臣。徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の功を立てた。晩年、「老臣権を争うは亡国の兆し」と老中への就任を辞退した。
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榊原 |
康政 |
41 | 78 | 45 |
57 | 81 |
90 |
通常版 | 1563 |
槍衾・2 |
神速 |
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とりい | もとただ |
武士 | 神仏 | 62 |
(1539-1600)徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。
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鳥居 |
元忠 |
5 | 63 | 36 |
40 | 97 |
90 |
通常版 | 1554 |
槍衾・1 |
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はっとり | まさなり |
忍者 | 神仏 | 55 |
(1542-1596)徳川家臣。半三保長の子。父の跡を継ぎ隠密頭を務める。主君・家康の伊賀越えの際には、警護を担当し、無事に帰国させた。「鬼の半蔵」の異名をとった。
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服部 |
正成 |
1 | 72 | 72 |
26 | 95 |
90 |
通常版 | 1557 |
槍衾・1 |
破壊 |
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ひらいわ | ちかよし |
武士 | 神仏 | 70 |
(1542-1611)徳川家臣。温好篤実な性格から、主君・家康の絶大な信頼を受け、家康の長男・松平信康の傅役を務める。信康の自害後は家康の九男・義直の傅役となった。
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平岩 |
親吉 |
68 | 38 | 52 |
47 | 89 |
90 |
通常版 | 1557 |
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くぼかわ | としみつ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1530-1579)土佐一条家臣。串山城主。高岡郡窪川郷を本拠とし、山内から窪川に改姓した。のちに長宗我部元親に属す。久武親直に従って南伊予地方を攻略中に戦死した。
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窪川 |
俊光 |
28 | 45 | 24 |
29 | 38 |
90 |
通常版 | 1545 |
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さいき | これのり |
武士 | 神仏 | 55 |
(1524-1578)大友家臣。二階崩れの変の際は、主君・宗麟を奉じて変を鎮圧した。一時西園寺家に仕えるが、のち帰参。宗麟の命で日向に進出するが、耳川合戦で戦死した。
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佐伯 |
惟教 |
32 | 50 | 47 |
47 | 38 |
90 |
通常版 | 1539 |
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たかはし | あきたね |
武士 | 神仏 | 50 |
(1530-1579)大友家臣。筑前宝満城主を務め、筑前の経略を担当する。のちに毛利家に通じて謀叛を起こし、大友家と毛利家が筑前を舞台に全面対決するきっかけを作った。
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高橋 |
鑑種 |
41 | 60 | 46 |
41 | 54 |
90 |
通常版 | 1545 |
槍衾・1 |
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もんぢゅうじょ | むねかげ |
国人 | 神仏 | 52 |
(1542-1593)筑後の豪族。長岩城主。耳川合戦後も大友家に属して戦い、主君・義統から恩賞を賜る。豊臣秀吉の九州征伐後は小早川家に属す。朝鮮派兵に従軍し戦死した。
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問註所 |
統景 |
34 | 45 | 49 |
50 | 69 |
90 |
通常版 | 1557 |
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