武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
まつだいら | ひでやす |
武士 | 神仏 | 34 |
(1574-1607)徳川家康の次男。結城家の家督を継ぐ。関ヶ原合戦の際は関東に残って上杉景勝に備え、戦後、越前福井75万石を領した。激しい気性の持ち主だったという。
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松平 |
秀康 |
47 | 73 | 26 |
43 | 72 |
94 |
通常版 | 1589 |
突撃・1 |
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まつだいら | ただなお |
武士 | 神仏 | 56 |
(1595-1650)結城秀康の嫡男。父の死後家督を継ぐ。大坂の陣では真田幸村軍の突撃を阻止するなど活躍。のちに幾多の不行跡を起こしたため、改易され配流処分となった。
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松平 |
忠直 |
36 | 71 | 18 |
18 | 53 |
93 |
通常版 | 1610 |
斉射・1 |
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とくがわ | いえやす |
武士 | 神仏 | 75 |
(1542-1616)江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。
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徳川 |
家康 |
90 | 85 | 84 |
72 | 85 |
90 |
通常版 | 1557 |
突撃・2 |
神速 |
鼓舞 |
まつだいら | のぶやす |
武士 | 神仏 | 21 |
(1559-1579)徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。剛勇英邁の人となりで、将来を嘱望されるが、のちに信長から武田家への内通を疑われ、父の命により自害した。
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松平 |
信康 |
45 | 75 | 53 |
60 | 80 |
90 |
通常版 | 1574 |
突撃・1 |
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とくがわ | ひでただ |
武士 | 神仏 | 54 |
(1579-1632)家康の三男。関ヶ原合戦の際、中山道からの進軍を真田昌幸に阻まれ、父の不興を買う。しかし、凡庸篤実な人柄を父に見込まれ、江戸幕府2代将軍となった。
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徳川 |
秀忠 |
75 | 18 | 81 |
61 | 29 |
78 |
通常版 | 1594 |
収拾 |
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まつだいら | ただよし |
武士 | 神仏 | 28 |
(1580-1607)徳川家康の四男。関ヶ原合戦では舅・井伊直政とともに戦端を開く。負傷しながらも島津義弘軍を討つなど戦功を立て、戦後、尾張清洲62万石を領した。
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松平 |
忠吉 |
53 | 54 | 28 |
52 | 66 |
85 |
通常版 | 1595 |
斉射・1 |
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まつだいら | ただてる |
武士 | 神仏 | 92 |
(1592-1683)徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。
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松平 |
忠輝 |
7 | 72 | 56 |
60 | 76 |
94 |
通常版 | 1607 |
突撃・1 |
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とくがわ | いえみつ |
武士 | 神仏 | 48 |
(1604-1651)徳川幕府3代将軍。秀忠の次男。参勤交代制の確立、武家諸法度の改定、鎖国の実施など、のちに「寛永の治」と呼ばれる政治を行い、幕府の安定を図った。
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徳川 |
家光 |
81 | 60 | 53 |
66 | 65 |
84 |
PK追加 | 1619 |
斉射・1 |
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