武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
しば | つねあき |
高家 | 神仏 | 60 |
(1500-1559)奥州斯波家当主。詮高の嫡男。奥州斯波家は、足利尊氏の家臣・斯波家長が奥州管領として斯波郡に派遣され、高水寺城を築いて本拠としたことに始まる。
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斯波 |
経詮 |
57 | 42 | 59 |
63 | 33 |
94 |
通常版 | 1515 |
挑発 |
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まつだいら | ひでやす |
武士 | 神仏 | 34 |
(1574-1607)徳川家康の次男。結城家の家督を継ぐ。関ヶ原合戦の際は関東に残って上杉景勝に備え、戦後、越前福井75万石を領した。激しい気性の持ち主だったという。
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松平 |
秀康 |
47 | 73 | 26 |
43 | 72 |
94 |
通常版 | 1589 |
突撃・1 |
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だいどうじ | もりまさ |
重臣 | 神仏 | 62 |
(1494-1555)北条家臣。鎌倉代官や河越城代を歴任した。大道寺家は「御由緒家」と呼ばれる北条家譜代の家臣で、北条早雲に従い駿河に下った太郎(発専)を始祖とする。
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大道寺 |
盛昌 |
71 | 35 | 42 |
48 | 60 |
94 |
通常版 | 1509 |
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まつだいら | ただてる |
武士 | 神仏 | 92 |
(1592-1683)徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。
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松平 |
忠輝 |
7 | 72 | 56 |
60 | 76 |
94 |
通常版 | 1607 |
突撃・1 |
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おおくぼ | ただよ |
武士 | 神仏 | 63 |
(1532-1594)徳川家臣。忠員の長男。三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。
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大久保 |
忠世 |
22 | 65 | 63 |
45 | 86 |
94 |
通常版 | 1547 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
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おおくぼ | ただすけ |
武士 | 神仏 | 77 |
(1537-1613)徳川家臣。忠員の次男。兄・忠世とともに各地で戦功を立てる。その剛勇ぶりは織田信長をも賞嘆させるほどであった。関ヶ原合戦後、駿河沼津2万石を領す。
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大久保 |
忠佐 |
16 | 66 | 54 |
39 | 78 |
94 |
通常版 | 1552 |
槍衾・1 |
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かなもり | ながちか |
武士 | 神仏 | 84 |
(1525-1608)織田家臣。赤母衣衆の1人。柴田勝家に従い北陸平定に貢献。勝家の死後は蟄居するが、のち豊臣秀吉に仕えた。茶の湯に秀で、利休七哲の1人に数えられる。
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金森 |
長近 |
55 | 56 | 48 |
75 | 47 |
94 |
通常版 | 1540 |
槍衾・1 |
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うちがしま | うじまさ |
国人 | 神仏 | 45 |
(1541-1585)飛騨の豪族。帰雲城主。豊臣家臣・金森長近の飛騨侵攻軍に降るが、大地震により居城が埋没、山崩れによる洪水が起こり滅亡した。現代に埋蔵金伝説が残る。
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内ヶ島 |
氏理 |
58 | 41 | 32 |
43 | 35 |
94 |
通常版 | 1556 |
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とうどう | たかとら |
武士 | 神仏 | 75 |
(1556-1630)徳川家康ほか7人の主君に仕え、主君を変える度に知行を増やし、伊勢安濃津32万石を領す。合戦では常に先鋒を務め奮戦、また多くの城の普請を担当した。
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藤堂 |
高虎 |
82 | 70 | 84 |
65 | 1 |
94 |
通常版 | 1571 |
斉射・1 |
混乱 |
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