武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
いなわしろ | もりくに |
武士 | 神仏 | 59 |
(1536-1594)蘆名家臣。後妻の讒言により子・盛胤の廃嫡を企むが発覚し、盛胤と争った。のちに主家に背いて伊達家に属し、摺上原合戦では先鋒を務めて蘆名軍と戦った。
|
猪苗代 |
盛国 |
42 | 32 | 57 |
36 | 9 |
65 |
通常版 | 1551 |
|
|
|
やしろ | かげより |
武士 | 神仏 | 46 |
(1563-1608)伊達家臣。14歳で政宗に近侍。知勇の才群を抜き、政宗不在時の留守居役を任された。しかし傲慢の振る舞いが多かったため改易され、流浪の末に病死した。
|
屋代 |
景頼 |
16 | 33 | 73 |
62 | 27 |
65 |
通常版 | 1578 |
混乱 |
|
|
なりた | ながやす |
国人 | 神仏 | 79 |
(1508-1586)山内上杉家臣。忍城主。主家滅亡後は上杉謙信に属した。しかし、謙信が鶴岡八幡宮に参拝した際、謙信の怒りを買ったため離反し、その後は北条家に属した。
|
成田 |
長泰 |
46 | 50 | 54 |
46 | 13 |
65 |
通常版 | 1523 |
|
|
|
かいほう | つなちか |
武士 | 神仏 | 65 |
(1509-1573)浅井家臣。画家・海北友松の父。豊臣秀吉が「我が軍法の師」と讃えた勇将。武者奉行を務め各地で活躍した。主家滅亡時に戦死した。「海赤雨三将」の1人。
|
海北 |
綱親 |
35 | 60 | 68 |
59 | 68 |
65 |
通常版 | 1524 |
突撃・1 |
鼓舞 |
|
はらだ | ただすけ |
国人 | 神仏 | 45 |
(1577-1621)宇喜多家臣。行佐(貞佐の子)の子。豊臣秀吉の朝鮮派兵の際は主君・秀家に従い渡海するが、配下の足軽が軍律違反を犯したため、召還され帰国、隠退した。
|
原田 |
忠佐 |
40 | 30 | 37 |
40 | 46 |
65 |
通常版 | 1592 |
|
|
|
といだ | たかもり |
武士 | 神仏 | 43 |
(1513-1555)大内家臣。石見守護代を務めた。陶晴賢の謀叛では晴賢に同調し、主家を継いだ義長に仕えた。晴賢の居城・若山城に滞在中に杉重輔の襲撃を受け、戦死した。
|
問田 |
隆盛 |
55 | 27 | 47 |
53 | 38 |
65 |
通常版 | 1528 |
|
|
|
ないとう | おきもり |
重臣 | 神仏 | 60 |
(1495-1554)大内家臣。長門守護代を務めた。陶晴賢の謀叛に同調するが積極的に動かず、孫の隆世が晴賢に従ったため、家中が分裂したという。文人として声望があった。
|
内藤 |
興盛 |
63 | 21 | 50 |
67 | 27 |
65 |
通常版 | 1510 |
|
|
|
ますだ | ふじかね |
国人 | 神仏 | 68 |
(1529-1596)大内家臣。益田城主。主家滅亡後は毛利家に従い、山陰平定戦で活躍した。晩年は仏教を厚く信仰した。家臣・品川大膳は山中幸盛と一騎討ちをして敗れた。
|
益田 |
藤兼 |
53 | 48 | 54 |
55 | 40 |
65 |
通常版 | 1544 |
|
|
|
ますだ | もとよし |
国人 | 神仏 | 83 |
(1558-1640)毛利家臣。藤兼の子。山陰平定戦で活躍した。関ヶ原合戦後に主家が減封されたあと、国家老に任ぜられて財政の立て直しを行い、萩藩の基盤確立に貢献した。
|
益田 |
元祥 |
78 | 9 | 47 |
70 | 71 |
65 |
通常版 | 1573 |
|
|
|
くまべ | ちかなが |
武士 | 神仏 | 73 |
(1516-1588)菊池家臣。肥後長野城主。主家没落後は龍造寺家に属す。豊臣秀吉の九州征伐軍に降るが、佐々成政の検地に抵抗して肥後国人一揆を起こし、敗れて殺された。
|
隈部 |
親永 |
36 | 27 | 54 |
52 | 23 |
65 |
通常版 | 1531 |
|
|
|