武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
いしかわ | たかのぶ |
重臣 | 神仏 | 76 |
(1496-1571)南部家臣。南部政康の次男。津軽郡代として甥・晴政を補佐し、南部家の勢力拡大に大きく貢献した。のちに家臣・大浦(津軽)為信の謀叛により、自害した。
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石川 |
高信 |
47 | 72 | 47 |
57 | 80 |
67 |
通常版 | 1511 |
突撃・1 |
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なんぶ | のぶなお |
重臣 | 神仏 | 54 |
(1546-1599)南部家26代当主。石川高信の子。晴継(晴政の子)死後の御家騒動に勝ち、家督を継ぐ。九戸政実の乱などに苦しむが豊臣秀吉に接近して領内を統一した。
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南部 |
信直 |
72 | 37 | 70 |
53 | 75 |
67 |
通常版 | 1561 |
挑発 |
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なんぶ | としなお |
重臣 | 神仏 | 57 |
(1576-1632)南部家27代当主。信直の子。父の死後に家督を継ぐ。関ヶ原合戦では東軍に属し、最上家を救援した。領内の一揆を平定するなど、南部藩の基礎を築いた。
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南部 |
利直 |
68 | 48 | 73 |
56 | 40 |
67 |
通常版 | 1591 |
斉射・1 |
混乱 |
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いずみやま | ふるやす |
武士 | 神仏 | 55 |
(1536-1590)南部家臣。政昭(石亀信房の子)の子。叔父・泉山康朝の養子として三戸郷泉山村を領し、泉山姓を名乗る。娘・慈照院はのちに主君・信直の後室となった。
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泉山 |
古康 |
60 | 36 | 44 |
54 | 67 |
67 |
通常版 | 1551 |
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いずみやま | まさよし |
武士 | 神仏 | 70 |
(1560-1629)南部家臣。古康の嫡男。姉は主君・信直の後室・慈照院。のちに石亀家が絶えたため、石亀姓を名乗った。信直の義弟として南部藩重臣20名のうちに列した。
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泉山 |
政義 |
54 | 27 | 43 |
53 | 57 |
67 |
通常版 | 1575 |
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きた | のぶちか |
重臣 | 神仏 | 91 |
(1523-1613)南部家臣。剣吉城主。晴政死後の御家騒動では信直を支持、信直の筆頭家老として活躍した。合戦に臨む際は、必ず小さな観音像を髻の中に収めていたという。
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北 |
信愛 |
75 | 68 | 64 |
71 | 88 |
67 |
通常版 | 1538 |
突撃・1 |
挑発 |
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はちのへ | まさよし |
武士 | 神仏 | 67 |
(1544-1610)南部家臣。八戸根城主。北信愛とともに主家を支えた重臣。信直が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した際には、留守居役を務めている。眼疾で盲目だったという。
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八戸 |
政栄 |
67 | 42 | 56 |
59 | 84 |
67 |
通常版 | 1559 |
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るす | あきむね |
国人 | 神仏 | 68 |
(1519-1586)留守家17代当主。景宗の嫡男。国分家らと戦いを繰り返した。のちに伊達晴宗の三男・政景を娘婿として隠居。この際嫡男・宗綱は高城家の養子となった。
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留守 |
顕宗 |
61 | 24 | 19 |
56 | 72 |
67 |
通常版 | 1534 |
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こくぶん | もりうじ |
国人 | 神仏 | 70 |
(1506-1575)陸奥の豪族。能登守と称した。1189年、源頼朝が陸奥平泉の藤原家を滅ぼした際に、焼け落ちて名前だけが残っていた国分尼寺を、1570年に再建した。
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国分 |
盛氏 |
45 | 32 | 25 |
48 | 38 |
67 |
通常版 | 1521 |
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こくぶん | もりあき |
国人 | 神仏 | 55 |
(1528-1582)陸奥の豪族。盛氏の子。国分家は源頼朝の奥州征伐に従った千葉常胤の五男・胤通を祖とする。子がなかったため、伊達晴宗の十男・盛重を養子として迎えた。
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国分 |
盛顕 |
22 | 13 | 32 |
35 | 52 |
67 |
通常版 | 1543 |
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すずき | もとのぶ |
商人 | 神仏 | 66 |
(1555-1620)伊達家臣。おもに内政面で活躍した。伊達家が天下を制した時を想定し式目などの草案を準備するが、臨終の際に「無用の長物」とこれらを焼却させたという。
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鈴木 |
元信 |
72 | 3 | 45 |
71 | 65 |
67 |
通常版 | 1570 |
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ちば | たねとみ |
守護 | 神仏 | 53 |
(1527-1579)千葉家27代当主。昌胤の次男。周辺の佐竹、里見家が上杉家と結ぶ中で、北条家と結んだ。のちに上杉・結城連合軍の攻撃を受けるが、撃退に成功している。
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千葉 |
胤富 |
56 | 53 | 46 |
50 | 52 |
67 |
通常版 | 1542 |
斉射・1 |
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はら | たねさだ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1512-1571)千葉家臣。胤清の子。生実城主。臼井家が原家に降伏した際には、臼井城に入り臼井家の家政を執行した。一時里見家に居城を奪われるが、のちに奪還した。
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原 |
胤貞 |
49 | 58 | 50 |
47 | 55 |
67 |
通常版 | 1527 |
突撃・1 |
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たかぎ | たねよし |
武士 | 神仏 | 82 |
(1484-1565)原家臣。高城家は千葉一族で、原家の軍事部門を担った重臣。小金城を築いて居城とした。第一次国府台合戦の際は北条家に属して奮戦、父と兄の敵を討った。
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高城 |
胤吉 |
57 | 50 | 41 |
41 | 57 |
67 |
通常版 | 1499 |
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たかぎ | たねのり |
武士 | 神仏 | 33 |
(1572-1604)原家臣。胤辰の子。豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠城、敗戦後は信濃国に蟄居。のちに豊臣家への仕官を許されるが、秀吉の死により果たせなかった。
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高城 |
胤則 |
39 | 37 | 35 |
36 | 53 |
67 |
通常版 | 1587 |
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みやぎ | まさなり |
武士 | 神仏 | 95 |
(1495-1589)岩付太田家臣。北条氏政の三男・氏房の岩付太田家入嗣後は北条家に属す。孫・泰業は馬上奉行を務め、主家滅亡後は主君・氏房らとともに高野山に上った。
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宮城 |
政業 |
52 | 34 | 47 |
36 | 33 |
67 |
通常版 | 1510 |
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ふじかた | やすまさ |
武士 | 神仏 | 52 |
(1571-1622)織田家臣。朝成の子。はじめ織田信包に仕え、信包改易後は豊臣秀次に仕える。秀次事件の後、徳川家康に招かれ下総で5百石を賜る。以後は徳川家に仕えた。
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藤方 |
安正 |
33 | 37 | 44 |
38 | 34 |
67 |
通常版 | 1586 |
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