武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
しば | あきなお |
高家 | 神仏 | 70 |
(1550-1619)奥州斯波家当主。詮真の子。南部信直の軍に敗れて逃走、各地に潜伏した。のちに南部家に仕えたが、大坂冬の陣の際、浪人となって京都に住んだという。
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斯波 |
詮直 |
27 | 8 | 4 |
54 | 14 |
95 |
通常版 | 1565 |
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いわしみず | よしなが |
武士 | 神仏 | 45 |
(1544-1588)斯波家臣。肥後と称す。政務を省みず遊興に耽る主君・詮直をたびたび諫めるが聞き入れられなかったという。南部家が斯波家を滅ぼした際に、主家に殉じた。
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岩清水 |
義長 |
31 | 36 | 42 |
55 | 84 |
95 |
通常版 | 1559 |
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おおさき | よしなお |
高家 | 神仏 | 64 |
(1514-1577)大崎家12代当主。伊達稙宗の援助によって家臣の謀叛を鎮圧するなど、勢力を次第に失う。天文の大乱では伊達晴宗に与力し稙宗に属した大崎義宣と戦った。
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大崎 |
義直 |
39 | 30 | 34 |
46 | 43 |
95 |
通常版 | 1529 |
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いちはさま | たかざね |
武士 | 神仏 | 45 |
(1549-1593)大崎家臣。真坂城主。伊豆守と称す。狩野姓も称した。一迫・狩野家は大崎一族の参謀を務めたという。天正末期の主家内乱に際しては、氏家吉継に味方した。
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一迫 |
隆真 |
48 | 17 | 60 |
38 | 33 |
95 |
通常版 | 1564 |
挑発 |
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なんじょう | たかのぶ |
武士 | 神仏 | 35 |
(1559-1593)大崎家臣。中新田城主。大崎家内乱の際には居城を守備し、神技に等しい作戦と指揮で、見事に伊達政宗の軍勢を撃退。大崎家侍大将中の名将とたたえられた。
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南条 |
隆信 |
17 | 68 | 57 |
38 | 92 |
95 |
通常版 | 1574 |
突撃・1 |
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みやざき | たかちか |
武士 | 神仏 | 55 |
(1542-1596)大崎家臣。宮崎城主。侍大将を務めた。葛西・大崎一揆の際は総大将を務め、居城に籠城して伊達軍と戦ったが敗れた。落城後は秋田仙北に隠れ住んだという。
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宮崎 |
隆親 |
19 | 56 | 41 |
39 | 86 |
95 |
通常版 | 1557 |
槍衾・1 |
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にいぜき | ひさまさ |
武士 | 神仏 | 61 |
(1582-1642)最上家臣。因幡守と称す。赤川の水を引く工事を行うが、主家改易により土井利勝預かりとなり、工事は中断。後年、用水堰は完成し「因幡堰」と呼ばれた。
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新関 |
久正 |
70 | 36 | 35 |
60 | 60 |
95 |
通常版 | 1597 |
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まえだ | としなが |
武士 | 神仏 | 53 |
(1562-1614)利家の嫡男。家督を相続後、謀叛の兆しありとの噂が流れるが、母・芳春院を人質に出して討伐を免れた。関ヶ原合戦で東軍に属し、加賀100万石を領した。
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前田 |
利長 |
60 | 42 | 54 |
54 | 41 |
95 |
通常版 | 1577 |
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いなば | さだみち |
武士 | 神仏 | 58 |
(1546-1603)織田家臣。一鉄の長男。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では織田秀信に従い西軍に属すが、のち東軍に降伏。戦後、豊後臼杵5万石を領した。
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稲葉 |
貞通 |
50 | 48 | 37 |
50 | 38 |
95 |
通常版 | 1561 |
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