武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
おぬき | よりひさ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1544-1603)佐竹家臣。義重・義宣2代に側近として仕え、外交面で重要な役割を果たした。知行割替時には、和田昭為、人見藤通とともに義宣の三奉行として活躍した。
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小貫 |
頼久 |
55 | 35 | 54 |
64 | 65 |
17 |
通常版 | 1559 |
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うつのみや | くにつな |
武士 | 神仏 | 40 |
(1568-1607)宇都宮家22代当主。広綱の嫡男。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵される。しかし、のちに豊臣家内部の権力闘争に巻き込まれ改易処分となった。
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宇都宮 |
国綱 |
57 | 45 | 51 |
49 | 44 |
17 |
通常版 | 1580 |
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まつだ | のりひで |
重臣 | 神仏 | 51 |
(1540-1590)北条家臣。筆頭家老を務めた。豊臣秀吉の小田原征伐の際は小田原城への籠城を主張し採用された。のちに秀吉に寝返ろうとして失敗、戦後、自害させられた。
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松田 |
憲秀 |
63 | 9 | 67 |
61 | 5 |
17 |
通常版 | 1555 |
挑発 |
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くの | むねよし |
武士 | 神仏 | 83 |
(1527-1609)今川家臣。久能城主。主家滅亡の直前に徳川家臣・高力清長の仲介により徳川家康に属す。家康の関東入国時に佐倉城主となるが、のちに久能城に復帰した。
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久能 |
宗能 |
53 | 43 | 57 |
42 | 33 |
17 |
通常版 | 1542 |
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いじち | しげおき |
国人 | 神仏 | 53 |
(1528-1580)大隅の豪族。小浜城主。肝付家と結んで島津家に対抗するが、島津軍に居城を落とされたため、降伏した。その後は島津家に属し、大友家攻めなどに従軍した。
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伊地知 |
重興 |
32 | 54 | 61 |
53 | 38 |
17 |
通常版 | 1543 |
斉射・1 |
鼓舞 |
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すだ | もりひさ |
武士 | 神仏 | 82 |
(1586-1667)宇都宮家臣。主家改易後は姉の夫・小貫頼久を介して佐竹家に属す。大坂冬の陣で功を立て、のちに家老となる。見識があり、慎重な人となりであったという。
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須田 |
盛久 |
65 | 28 | 45 |
59 | 63 |
17 |
PK追加 | 1601 |
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うきた | あきいえ |
重臣 | 神仏 | 50 |
(1567-1616)宇喜多家臣。忠家の子。主家の内乱により出奔、徳川家康に属す。関ヶ原合戦の戦功により石見浜田2万石を領した。大坂の陣では家康の孫娘・千を救出した。
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宇喜多 |
詮家 |
18 | 59 | 16 |
19 | 42 |
17 |
PK追加 | 1582 |
斉射・1 |
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おおた | かずよし |
武士 | 神仏 | 52 |
(1566-1617)丹羽家臣。主家没落後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では西軍に属し居城・豊後臼杵城に籠城して戦うが、主力の敗北により開城。その後は京都に隠棲した。
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太田 |
一吉 |
42 | 47 | 35 |
29 | 55 |
17 |
PK追加 | 1581 |
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