武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
なんぶ | はるまさ |
国人 | 神仏 | 66 |
(1517-1582)南部家24代当主。安信の子。将軍・足利義晴の偏諱を賜り、晴政と名乗る。三戸城を本拠に「三日月の丸くなるまで南部領」といわれる広大な版図を築いた。
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南部 |
晴政 |
35 | 79 | 36 |
42 | 29 |
66 |
通常版 | 1532 |
突撃・2 |
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だて | はるむね |
守護 | 神仏 | 59 |
(1519-1577)伊達家15代当主。稙宗の嫡男。父と対立して天文の大乱を引き起こすが、終息後に家督を相続。父と同じく、婚姻外交を駆使して伊達家の地位を不動にした。
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伊達 |
晴宗 |
75 | 49 | 68 |
63 | 30 |
66 |
通常版 | 1534 |
斉射・1 |
破壊 |
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だて | さねもと |
守護 | 神仏 | 61 |
(1527-1587)伊達家臣。稙宗の三男。越後上杉家に入嗣する予定だったが、兄・晴宗の阻止により天文の大乱が起こった。乱中は稙宗に属すが、乱の終息後は晴宗に仕えた。
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伊達 |
実元 |
55 | 50 | 48 |
54 | 53 |
66 |
通常版 | 1542 |
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だて | しげざね |
守護 | 神仏 | 79 |
(1568-1646)伊達家臣。実元の子。「武」の面で主君の政宗を補佐した伊達家中随一の猛将。「英毅大略あり」と評された。晩年には徳川家光に奥州の軍談を語っている。
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伊達 |
成実 |
46 | 81 | 44 |
63 | 67 |
66 |
通常版 | 1583 |
突撃・2 |
神速 |
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なかの | むねとき |
武士 | 神仏 | 73 |
(1503-1575)伊達家臣。天文の大乱では主君・晴宗の参謀を務め、乱の終息後は家中で最大の勢力を誇った。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れて逃亡し、流浪の末、餓死した。
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中野 |
宗時 |
77 | 11 | 61 |
62 | 26 |
66 |
通常版 | 1518 |
挑発 |
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おおたわら | すけきよ |
武士 | 神仏 | 75 |
(1486-1560)那須七党の一。大田原城主。黒羽城主・大関増次を討って子・高増に大関家を継がせたり、娘を主君・政資の側室とするなど、那須家中で最大の勢力を築いた。
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大田原 |
資清 |
73 | 57 | 74 |
62 | 30 |
66 |
通常版 | 1501 |
槍衾・1 |
挑発 |
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おおぜき | たかます |
武士 | 神仏 | 72 |
(1527-1598)那須七党の一。大田原資清の子。大関・大田原・福原家を率い、伊王野・蘆野家と結び、大伯父として主君・資晴を後見するなど家中最大の勢力を築き上げた。
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大関 |
高増 |
72 | 61 | 78 |
63 | 40 |
66 |
通常版 | 1542 |
斉射・1 |
破壊 |
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おおたわら | つなきよ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1540-1589)那須七党の一。資清の三男。兄の高増・資孝が別家を立てたため、大田原家を継ぐ。豊臣秀吉の小田原征伐に際しては、子・晴清を秀吉の出迎えに遣わした。
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大田原 |
綱清 |
47 | 41 | 67 |
54 | 60 |
66 |
通常版 | 1555 |
収拾 |
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おおたわら | はるきよ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1567-1631)那須七党の一。綱清の子。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。関ヶ原合戦では東軍に属し、上杉家の様子を探るなど活躍し、戦後加増された。
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大田原 |
晴清 |
58 | 37 | 61 |
52 | 45 |
66 |
通常版 | 1582 |
鼓舞 |
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あかお | きよつな |
武士 | 神仏 | 60 |
(1514-1573)浅井家臣。海北綱親・雨森弥兵衛とともに「海赤雨三将」と称された。主家の居城・小谷城に赤尾曲輪を設け在番した。主家滅亡時に捕虜となり、斬首された。
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赤尾 |
清綱 |
62 | 57 | 46 |
54 | 77 |
66 |
通常版 | 1529 |
槍衾・1 |
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