武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
まきの | ひさなか |
武士 | 神仏 | 44 |
(1532-1575)伊達家臣。中野宗時の次男。桑折貞長とともに奥州守護代を務め、父とともに伊達家中の政務を取り仕切る。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れ、相馬領に逃れた。
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牧野 |
久仲 |
75 | 5 | 63 |
58 | 20 |
74 |
通常版 | 1547 |
挑発 |
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うどの | うじなが |
高家 | 神仏 | 76 |
(1549-1624)今川家臣。長照の子。父が戦死した際に徳川家康に捕らえられ、家康の妻子と引き換えに駿府城に赴く。主家滅亡後は徳川家に属し、長篠合戦などに従軍した。
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鵜殿 |
氏長 |
34 | 6 | 20 |
66 | 20 |
27 |
通常版 | 1564 |
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こづくり | ともまさ |
高家 | 神仏 | 55 |
(1530-1584)北畠家臣。北畠晴具の子。木造家を継いだ。兄・具教に背いて織田信長の軍に降る。その後は織田信雄に属し、小牧長久手合戦では蒲生氏郷軍と戦うが敗れた。
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木造 |
具政 |
51 | 45 | 55 |
54 | 20 |
37 |
通常版 | 1545 |
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うさみ | さだみつ |
武士 | 神仏 | 76 |
(1489-1564)上杉家臣。越後流軍学の祖という。上条定憲の乱の際は上条方に属すが、定憲の死後、帰参。国政に参画するなど活躍したが、長尾政景と舟遊び中に溺死した。
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宇佐美 |
定満 |
36 | 68 | 81 |
75 | 20 |
12 |
通常版 | 1504 |
槍衾・2 |
混乱 |
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あかな | もりきよ |
武士 | 神仏 | 67 |
(1529-1595)尼子家臣。瀬戸山城主。光清の三男。父の壮烈な死に感動した主君・晴久により所領を加増された。のち毛利元就の出雲侵攻軍に降り、以後は毛利家に属した。
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赤穴 |
盛清 |
46 | 32 | 45 |
44 | 20 |
06 |
通常版 | 1544 |
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いちくり | たかはる |
武士 | 神仏 | 58 |
(1557-1614)大崎家臣。一栗城主。葛西・大崎一揆の際は居城に籠城し、最後まで奮戦する。一揆鎮定後は最上家に仕え、鶴岡城番を務めたが、謀叛を起こして誅せられた。
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一栗 |
高春 |
13 | 55 | 46 |
42 | 21 |
97 |
通常版 | 1572 |
槍衾・1 |
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おおうち | さだつな |
国人 | 神仏 | 65 |
(1546-1610)陸奥の豪族。塩松城主。伊達政宗が伊達家当主となると、これに帰属するが、間もなく敵対。政宗の攻撃を受けて敗北し以後は伊達家に仕えた。槍術に秀でた。
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大内 |
定綱 |
24 | 52 | 56 |
43 | 21 |
26 |
通常版 | 1561 |
槍衾・1 |
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みぶ | よしたけ |
武士 | 神仏 | 39 |
(1552-1590)宇都宮家臣。壬生城主。綱雄の嫡男。叔父・周良を討ち父の敵を取る。のち北条家に属す。豊臣秀吉の小田原征伐の際は小田原城に籠城、戦後間もなく没した。
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壬生 |
義雄 |
37 | 46 | 49 |
45 | 21 |
13 |
通常版 | 1567 |
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やまのうち | かずとよ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1546-1605)織田家臣。妻・千代の内助の功が著名。本能寺の変後は豊臣秀吉に属す。関ヶ原合戦の際は居城・掛川城を徳川家康に献上し、戦後、土佐高知24万石を得た。
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山内 |
一豊 |
60 | 42 | 45 |
49 | 21 |
87 |
通常版 | 1561 |
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かがわ | もとかげ |
国人 | 神仏 | 70 |
(1515-1584)細川家臣。天霧城主。主家の没落後は三好家に従う。のち織田信長に通じるが、長宗我部元親の讃岐侵攻軍に降り、元親の次男・親和を養子とし家督を譲った。
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香川 |
元景 |
45 | 41 | 48 |
47 | 21 |
48 |
通常版 | 1530 |
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もとやま | しげむね |
国人 | 神仏 | 49 |
(1507-1555)土佐の豪族。本山城主。嶺北地方一帯に加え南方の平野部に支配圏を広げ、本山家最大の版図を築いた。のちに子・茂辰に本山城を譲り、土佐朝倉城に移った。
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本山 |
茂宗 |
37 | 65 | 63 |
49 | 21 |
25 |
通常版 | 1522 |
突撃・1 |
破壊 |
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しょうに | ふゆひさ |
高家 | 神仏 | 31 |
(1529-1559)少弐家17代当主。資元の子。龍造寺家兼の一族を殺し、東肥前の領主の後援を得て勢力回復をはかるが、再起した家兼の曾孫・隆信の軍勢に敗れ、自害した。
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少弐 |
冬尚 |
49 | 23 | 48 |
63 | 21 |
28 |
通常版 | 1544 |
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おがわ | すけただ |
国人 | 神仏 | 55 |
(1547-1601)近江の豪族。明智光秀に属す。光秀の死後は柴田勝豊の家老を経て豊臣秀吉に仕え、伊予府中7万石を領した。関ヶ原合戦で東軍に寝返るが、戦後改易された。
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小川 |
祐忠 |
26 | 28 | 60 |
34 | 21 |
27 |
PK追加 | 1562 |
混乱 |
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くのへ | のぶなか |
国人 | 神仏 | 55 |
(1514-1568)南部家臣。信実の長男。九戸城主。右京と称す。九戸家は南部家の庶流で、南部行連(南部家の始祖・光行の六男)を祖とするという。八戸信長の娘を娶った。
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九戸 |
信仲 |
38 | 53 | 57 |
48 | 22 |
60 |
通常版 | 1529 |
斉射・1 |
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たがや | しげつね |
国人 | 神仏 | 61 |
(1558-1618)結城家臣。下妻城主。政経の子。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。関ヶ原合戦で西軍に属したため改易され、放浪の末近江彦根で死去した。
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多賀谷 |
重経 |
35 | 51 | 54 |
50 | 22 |
37 |
通常版 | 1573 |
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あまの | かげつら |
武士 | 神仏 | 64 |
(1532-1595)今川家臣。犬居城主。田原本宿の合戦で功を立てた。主家滅亡後は武田家に仕え徳川家と戦う。武田家滅亡後は北条家に属し、佐竹家との戦いで功を立てた。
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天野 |
景貫 |
36 | 39 | 47 |
46 | 22 |
42 |
通常版 | 1547 |
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たけだ | のぶとら |
守護 | 神仏 | 81 |
(1494-1574)甲斐守護。甲斐を平定するが、その苛烈な政策方針に反発した嫡男・信玄によって駿河に追放された。以後は各地を放浪し、甲斐に再び戻ることはなかった。
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武田 |
信虎 |
45 | 85 | 48 |
16 | 22 |
44 |
通常版 | 1509 |
突撃・2 |
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ゆさ | もりみつ |
守護代 | 神仏 | 35 |
(1547-1581)畠山家臣。続光の子。年寄衆として政権に参画。上杉家に通じて長家を追い落とす。織田家の勢力が及ぶと長家の攻撃を受け逐電するが、捕縛され斬首された。
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遊佐 |
盛光 |
40 | 10 | 54 |
51 | 22 |
84 |
通常版 | 1562 |
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あかし | かげちか |
武士 | 神仏 | 70 |
(1520-1589)浦上家臣。坂根城主。明禅寺合戦などに従軍した。宇喜多直家が主家の居城・天神山城を攻めた際、直家に通じて主家滅亡の原因を作る。以後は直家に仕えた。
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明石 |
景親 |
56 | 35 | 66 |
61 | 22 |
19 |
通常版 | 1535 |
破壊 |
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すぎ | しげよし |
武士 | 神仏 | 28 |
(1552-1579)大内家臣。祖父・重矩と父・重輔を陶晴賢に殺されたため、毛利家に属し、福原貞俊の娘を娶る。のちに大友家に属すが大友家を離反した高橋鑑種に討たれた。
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杉 |
重良 |
31 | 23 | 24 |
35 | 22 |
53 |
通常版 | 1567 |
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