武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
かさい | ちかのぶ |
守護 | 神仏 | 48 |
(1513-1560)葛西家16代当主。晴胤の嫡男。寺池城主。父の死後、葛西家の家督を継ぐ。しかし、病弱のため、さしたる事跡も残せぬまま、治世わずか5年で病没した。
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葛西 |
親信 |
36 | 18 | 24 |
37 | 44 |
77 |
通常版 | 1528 |
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やはぎ | しげつね |
武士 | 神仏 | 37 |
(1555-1591)葛西家臣。外館城主。浜田兵乱鎮定に功を立て、浜田家に代わって気仙郡の旗頭となった。この際、金の采配を許されたという。のちに伊達政宗に謀殺された。
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矢作 |
重常 |
27 | 42 | 38 |
42 | 41 |
77 |
通常版 | 1570 |
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ほうじょう | うじまさ |
武士 | 神仏 | 53 |
(1538-1590)後北条家4代当主。氏康の嫡男。優秀な弟たちや家臣団に支えられ、北条家の地位を不動のものにした。豊臣秀吉の小田原征伐軍に抗戦するが敗れ、自害した。
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北条 |
氏政 |
63 | 63 | 55 |
64 | 35 |
77 |
通常版 | 1553 |
槍衾・1 |
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ほうじょう | うじてる |
武士 | 神仏 | 51 |
(1540-1590)北条家臣。氏康の次男。軍事・外交の両面で兄・氏政を補佐。おもに下野や下総方面の攻略を担当した。小田原落城後、豊臣秀吉の命により、兄とともに自害。
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北条 |
氏照 |
50 | 66 | 51 |
61 | 77 |
77 |
通常版 | 1555 |
突撃・1 |
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かに | よしなが |
武士 | 神仏 | 60 |
(1554-1613)福島家臣。侍大将を務める。宝蔵院胤栄に槍術を学ぶ。関ヶ原合戦では討ち取った17の首級すべてに笹を差して目印としたため「笹の才蔵」の異名をとった。
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可児 |
吉長 |
3 | 71 | 18 |
10 | 28 |
77 |
通常版 | 1569 |
槍衾・1 |
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ちょう | つぐつら |
武士 | 神仏 | 60 |
(1518-1577)畠山家臣。畠山七人衆に名を連ねた。温井・三宅一党の叛乱鎮圧に活躍し、重臣筆頭として畠山家の実権を握る。のちに織田信長に通じ、上杉謙信に討たれた。
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長 |
続連 |
55 | 48 | 60 |
56 | 42 |
77 |
通常版 | 1533 |
収拾 |
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ちょう | つらたつ |
武士 | 神仏 | 74 |
(1546-1619)畠山家臣。続連の次男。父と兄・綱連の死後、還俗して家督を継いだ。織田信長に従属して福水城主となり、旧領を回復した。のちに前田利家の与力となった。
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長 |
連龍 |
50 | 46 | 54 |
53 | 63 |
77 |
通常版 | 1561 |
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いとう | よしすけ |
武士 | 神仏 | 74 |
(1512-1585)日向の戦国大名。伊東家最大の版図を築くが、木崎原合戦で島津軍に敗れ衰退。豊後の大友宗麟を頼るが、大友軍が耳川合戦で大敗したあとは各地を流浪した。
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伊東 |
義祐 |
39 | 63 | 27 |
58 | 38 |
77 |
通常版 | 1527 |
槍衾・1 |
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いとう | すけたか |
武士 | 神仏 | 42 |
(1559-1600)豊臣家臣。義祐の子。豊臣秀吉の九州征伐軍の先導役を務め、日向飫肥の旧領を回復した。朝鮮派兵にも従軍。関ヶ原合戦では東軍に属すが、戦後、病死した。
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伊東 |
祐兵 |
62 | 51 | 56 |
60 | 65 |
77 |
通常版 | 1574 |
斉射・1 |
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いとう | すけのり |
武士 | 神仏 | 48 |
(1589-1636)日向飫肥藩主。祐兵の子。関ヶ原合戦のは父とともに東軍に属し、高橋元種軍や島津軍と戦った。父の死後、日向飫肥3万6千石を継ぐ。検地・開墾を行った。
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伊東 |
祐慶 |
56 | 39 | 40 |
54 | 52 |
77 |
通常版 | 1604 |
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とよなが | かつもと |
武士 | 神仏 | 87 |
(1551-1637)長宗我部家臣。主君・元親に従って阿波統一戦で活躍、また奉行として国政に参画した。関ヶ原合戦後、浪人となる。大坂の陣では旧主・盛親に従って戦った。
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豊永 |
勝元 |
62 | 31 | 46 |
47 | 63 |
77 |
PK追加 | 1566 |
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