武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
おがさわら | のぶきよ |
武士 | 神仏 | 66 |
(1532-1597)津軽家臣。主君・為信の創業期を支えた大浦三老の1人。信濃国の出身で津軽に移住し、大浦家に仕える。大光寺城、石川城攻めに従軍するなど、活躍した。
|
小笠原 |
信浄 |
36 | 49 | 57 |
55 | 72 |
07 |
通常版 | 1547 |
|
|
|
そうま | もりたね |
武士 | 神仏 | 73 |
(1529-1601)相馬家15代当主。顕胤の嫡男。小高城主。天文の大乱後は伊達家と敵対し、各地で死闘を展開する。一方、近隣の田村清顕とは和睦し、所領の基盤を固めた。
|
相馬 |
盛胤 |
51 | 77 | 55 |
52 | 75 |
07 |
通常版 | 1544 |
突撃・1 |
|
|
そうま | よしたね |
武士 | 神仏 | 88 |
(1548-1635)相馬家16代当主。盛胤の嫡男。伊達家と各地で抗争を展開した。関ヶ原合戦で西軍に属していったん改易されるが、伊達政宗の取りなしで本領を安堵された。
|
相馬 |
義胤 |
45 | 68 | 48 |
47 | 78 |
07 |
通常版 | 1563 |
突撃・1 |
|
|
みずたに | たねしげ |
武士 | 神仏 | 69 |
(1538-1606)相馬家臣。関ヶ原合戦後、領内の通過を願う伊達政宗の殺害を唱える声が多い中で唯一反対し、政宗は無事領内を通過。この一件により、主家は改易を免れた。
|
水谷 |
胤重 |
62 | 59 | 36 |
56 | 86 |
07 |
通常版 | 1553 |
斉射・1 |
|
|
はしば | ひでとし |
武士 | 神仏 | 21 |
(1582-1602)豊臣家臣。木下家定の子。豊臣秀吉の命により小早川隆景の養子となる。関ヶ原合戦では東軍に寝返り、東軍勝利に大きく貢献したが、その2年後に急死した。
|
羽柴 |
秀俊 |
14 | 34 | 21 |
58 | 10 |
07 |
通常版 | 1597 |
|
|
|
がもう | さだひで |
武士 | 神仏 | 72 |
(1508-1579)六角家臣。六角軍の先鋒として各地に出陣し、勇名を馳せた。主君・義治が後藤賢豊を謀殺して観音寺騒動が起こった際は、義治と家臣団間の調停役を務めた。
|
蒲生 |
定秀 |
54 | 53 | 58 |
54 | 50 |
07 |
通常版 | 1523 |
斉射・1 |
収拾 |
|
がもう | かたひで |
武士 | 神仏 | 51 |
(1534-1584)六角家臣。定秀の子。織田信長上洛の際は信長の三男・信孝が妹婿・神戸具盛の養子となった関係から織田家に属す。本能寺の変の際は信長の妻子を保護した。
|
蒲生 |
賢秀 |
54 | 47 | 55 |
54 | 58 |
07 |
通常版 | 1549 |
|
|
|
くろだ | ながまさ |
武士 | 神仏 | 56 |
(1568-1623)豊臣家臣。官兵衛孝高の嫡男。九州征伐などで活躍した。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後筑前福岡52万石を領す。以後は徳川幕府への恭順の姿勢を貫いた。
|
黒田 |
長政 |
77 | 63 | 73 |
69 | 44 |
07 |
通常版 | 1583 |
斉射・1 |
鼓舞 |
|
うきた | ただいえ |
重臣 | 神仏 | 74 |
(1536-1609)宇喜多家臣。興家の子。兄・直家の創業に大いに貢献した。兄の死後は甥・秀家の後見人となる。朝鮮派兵の際は、豊臣軍総督を務める秀家に従って渡海した。
|
宇喜多 |
忠家 |
58 | 51 | 47 |
58 | 62 |
07 |
通常版 | 1551 |
斉射・1 |
|
|
おくむら | ながとみ |
武士 | 神仏 | 83 |
(1542-1624)前田家臣。能登末森城主。佐々成政率いる1万5千の大軍を、わずか3百の兵で撃退した。この際、長福の妻が城兵を叱咤激励して回ったという逸話が残る。
|
奥村 |
長福 |
55 | 65 | 52 |
59 | 90 |
07 |
PK追加 | 1557 |
斉射・1 |
鉄壁 |
|