武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
おおとも | そうりん |
守護 | 基督教 | 58 |
(1530-1587)大友家21代当主。義鑑の子。のち宗麟と号す。最盛期には九州6カ国を領したが、耳川合戦で島津軍に敗れて家臣を多数失い、以後は没落の一途をたどった。
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大友 |
宗麟 |
78 | 73 | 67 |
74 | 2 |
84 |
通常版 | 1545 |
斉射・2 |
破壊 |
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ちょうじゅいん | もりあつ |
僧侶 | 神仏 | 54 |
(1547-1600)島津家臣。高野山や根来寺で修業を積み鹿児島安養院の住職となる。のちに家老となって国政に参画した。関ヶ原合戦で主君・義弘の影武者となり、戦死した。
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長寿院 |
盛淳 |
68 | 39 | 67 |
66 | 64 |
30 |
PK追加 | 1562 |
挑発 |
収拾 |
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さたけ | よしあき |
守護 | 神仏 | 35 |
(1531-1565)佐竹家17代当主。義篤の嫡男。南陸奥の白河結城家を降し、常陸の覇権を巡って小田家と争った。関東管領・上杉憲政が庇護を求めた際は、これを拒否した。
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佐竹 |
義昭 |
78 | 69 | 66 |
58 | 63 |
20 |
通常版 | 1545 |
槍衾・2 |
破壊 |
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さとみ | よしより |
武士 | 神仏 | 45 |
(1543-1587)房総の戦国大名。義堯の次男。里見梅王丸(兄・義弘の子)に出家を強要し、家督を継ぐ。この一件に憤激し謀叛を起こした正木憲時を討ち、上総を平定した。
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里見 |
義頼 |
43 | 54 | 66 |
46 | 29 |
31 |
通常版 | 1558 |
斉射・1 |
破壊 |
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おばた | のりしげ |
国人 | 神仏 | 54 |
(1522-1575)山内上杉家臣。妻は長野業正の妹。一族の謀叛により流浪、武田信玄に属す。信玄の上野攻略に貢献、西上野先方衆筆頭となった。長篠合戦で戦死したという。
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小幡 |
憲重 |
14 | 65 | 66 |
50 | 81 |
38 |
通常版 | 1537 |
突撃・1 |
挑発 |
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ゆら | なりしげ |
重臣 | 神仏 | 73 |
(1506-1578)横瀬由良家8代当主。泰繁の嫡男。由良姓に改める。上杉家に属し、北条・武田家の侵略に対抗した。のち北条家に属し北条家と上杉家との同盟を仲介した。
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由良 |
成繁 |
58 | 50 | 66 |
63 | 53 |
08 |
通常版 | 1521 |
槍衾・1 |
破壊 |
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ほんだ | ただかつ |
武士 | 神仏 | 63 |
(1548-1610)徳川家臣。徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と評された家中随一の猛将。名槍・蜻蛉切を手に57度の合戦に参陣し、傷一つ負わなかったという。
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本多 |
忠勝 |
54 | 84 | 66 |
48 | 94 |
90 |
通常版 | 1563 |
突撃・2 |
鉄壁 |
挑発 |
ひらて | まさひで |
武士 | 神仏 | 62 |
(1492-1553)織田家臣。次席家老。信長の傅役を務めた。信長の妻に斎藤道三の娘・帰蝶を迎えるよう尽力するなど、外交面で活躍。信長の奇行を改めさせるため諫死した。
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平手 |
政秀 |
72 | 31 | 66 |
72 | 80 |
00 |
通常版 | 1507 |
収拾 |
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あんどう | もりなり |
武士 | 神仏 | 60 |
(1523-1582)斎藤家臣。美濃三人衆の1人。主家滅亡後は織田信長に属すが、のちに追放された。本能寺の変に乗じて旧領回復の兵を挙げるが、稲葉一鉄と戦って敗死した。
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安藤 |
守就 |
52 | 40 | 66 |
55 | 13 |
25 |
通常版 | 1538 |
混乱 |
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たきがわ | かつとし |
僧侶 | 神仏 | 68 |
(1543-1610)織田家臣。木造俊茂の子。滝川一益の娘を娶り滝川姓を名乗る。小牧長久手合戦後は軍師格として豊臣秀吉に仕えた。関ヶ原合戦では西軍に属し、所領を失う。
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滝川 |
雄利 |
42 | 51 | 66 |
51 | 50 |
21 |
通常版 | 1558 |
斉射・1 |
破壊 |
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おやまだ | のぶしげ |
国人 | 神仏 | 38 |
(1545-1582)武田家臣。出羽守信有の子。投石を得意とする部隊を率いて各地の合戦で活躍。織田信長の甲斐侵攻軍に降るが、主君・勝頼の死後、裏切り者として斬られた。
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小山田 |
信茂 |
64 | 63 | 66 |
56 | 24 |
71 |
通常版 | 1560 |
斉射・1 |
挑発 |
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ただ | みつより |
武士 | 神仏 | 63 |
(1501-1563)武田家臣。甲陽五名臣の1人。美濃の出身。信濃虚空蔵山の砦において、地獄の妖婆・火車鬼を退治したという伝説を持つ。夜襲の采配は家中随一と評された。
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多田 |
満頼 |
11 | 62 | 66 |
44 | 58 |
56 |
通常版 | 1516 |
槍衾・1 |
収拾 |
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あねがこうじ | よりつな |
高家 | 神仏 | 48 |
(1540-1587)飛騨の豪族。良頼の長男。近隣の豪族を討ち、飛騨の統一を果たす。本能寺の変後、佐々成政と結んで羽柴秀吉に対抗したが敗れ、京都に隠棲。同地で没した。
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姉小路 |
頼綱 |
57 | 58 | 66 |
56 | 47 |
48 |
通常版 | 1555 |
突撃・1 |
鼓舞 |
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あかし | かげちか |
武士 | 神仏 | 70 |
(1520-1589)浦上家臣。坂根城主。明禅寺合戦などに従軍した。宇喜多直家が主家の居城・天神山城を攻めた際、直家に通じて主家滅亡の原因を作る。以後は直家に仕えた。
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明石 |
景親 |
56 | 35 | 66 |
61 | 22 |
19 |
通常版 | 1535 |
破壊 |
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とがわ | ひでやす |
武士 | 神仏 | 60 |
(1533-1592)宇喜多家臣。宇喜多三老の1人。明禅寺合戦や児島八浜合戦など多くの合戦に従軍し、主君・直家の創業を助けた。のちに筆頭家老を務め、国政にも参画した。
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戸川 |
秀安 |
59 | 53 | 66 |
49 | 54 |
99 |
通常版 | 1548 |
斉射・1 |
挑発 |
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はなぶさ | まさなり |
武士 | 神仏 | 69 |
(1555-1623)宇喜多家臣。正幸の子。羽柴秀吉の中国征伐軍に従った際、高松城を水攻めにすることを進言したという。のちに内乱により主家を出奔し、徳川家康に仕えた。
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花房 |
正成 |
63 | 40 | 66 |
62 | 62 |
98 |
通常版 | 1570 |
破壊 |
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たていし | まさよし |
武士 | 神仏 | 60 |
(1565-1624)長宗我部家臣。伊予三滝城攻めなどで功を立てた。関ヶ原合戦で敗れた際は降伏の使者を務める。主家改易後は肥後細川家に仕えた。のち「長元記」を著した。
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立石 |
正賀 |
65 | 21 | 66 |
68 | 54 |
93 |
通常版 | 1580 |
収拾 |
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うすき | あきはや |
武士 | 神仏 | 58 |
(1518-1575)大友家臣。豊後三老の1人。外交事務を担当する一方で、肥前方分を務めて主家の国政に参画する。また筑前平定軍の総大将を務めるなど、各方面で活躍した。
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臼杵 |
鑑速 |
72 | 45 | 66 |
69 | 62 |
89 |
通常版 | 1533 |
挑発 |
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しまづ | としひさ |
守護 | 神仏 | 56 |
(1537-1592)島津家臣。貴久の三男。日置島津家の祖となる。豊臣秀吉の九州征伐軍に最後まで抵抗した。多くの家臣が梅北国兼の乱に加担したため、責任をとり自害した。
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島津 |
歳久 |
45 | 66 | 66 |
55 | 67 |
18 |
通常版 | 1552 |
斉射・1 |
混乱 |
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つがる | のぶひら |
武士 | 神仏 | 46 |
(1586-1631)弘前藩2代藩主。為信の三男。幼い頃に父の勧めで受洗した。2人の兄が幼くして世を去ったため父の死後家督を継ぐ。弘前城を築くなど、藩の基礎を固めた。
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津軽 |
信枚 |
59 | 61 | 65 |
63 | 44 |
13 |
通常版 | 1601 |
槍衾・1 |
挑発 |
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