武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
もうり | たかもと |
武士 | 神仏 | 41 |
(1523-1563)安芸の戦国大名。元就の嫡男。大内家の人質となり、大内義隆から加冠され元服した。父の後見を受けて中国経略に従事するが、出雲遠征に向かう途中に急死。
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毛利 |
隆元 |
76 | 66 | 64 |
71 | 79 |
36 |
通常版 | 1538 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
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かきざき | すえひろ |
国人 | 神仏 | 89 |
(1507-1595)蠣崎家4代当主。義広の子。先祖より対立の続いていたアイヌと和睦し、蝦夷商船往来の制を定める。この政策により、蝦夷地の領主としての地位を確立した。
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蠣崎 |
季広 |
71 | 44 | 63 |
55 | 52 |
35 |
通常版 | 1522 |
混乱 |
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たかだ | やすざね |
国人 | 神仏 | 42 |
(1553-1594)南部家臣。九戸信仲の子。はじめ高水寺城主・斯波詮真の娘婿となるが、のちに斯波家を出奔、斯波家討伐軍の先鋒を務めた。従兄弟・連尹に斬られ死去した。
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高田 |
康真 |
30 | 19 | 63 |
53 | 16 |
60 |
通常版 | 1568 |
鼓舞 |
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あしな | もりきよ |
守護 | 神仏 | 64 |
(1490-1553)蘆名家15代当主。猪苗代家の叛乱を鎮定し、伊達稙宗の葛西家攻めに協力、また岩城・白河結城家と戦うなど、事実上の会津守護職としての行動を取った。
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蘆名 |
盛舜 |
65 | 54 | 63 |
49 | 47 |
45 |
通常版 | 1505 |
突撃・1 |
破壊 |
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おのでら | てるみち |
武士 | 神仏 | 64 |
(1534-1597)小野寺家13代当主。惟道の嫡男。父の死後、一時大宝寺家を頼るが、のちに仇敵・大和田光盛らを滅ぼし、横手城に復帰。小野寺家の全盛時代を築き上げた。
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小野寺 |
輝道 |
52 | 60 | 63 |
61 | 55 |
49 |
通常版 | 1549 |
斉射・1 |
挑発 |
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もにわ | つなもと |
重臣 | 神仏 | 92 |
(1549-1640)伊達家臣。主君・政宗の腹心となる。朝鮮派兵の際に、豊臣秀吉の愛妾・香の前を賜り、政宗の怒りを買って出奔。のちに帰参し、国老として国政に携わった。
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茂庭 |
綱元 |
63 | 48 | 63 |
63 | 68 |
70 |
通常版 | 1564 |
破壊 |
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こやながわ | むねとも |
武士 | 神仏 | 97 |
(1469-1565)伊達家臣。天文の大乱に際しては稙宗側に属し、西山城に幽閉されていた稙宗を救出するなど活躍した。乱の終息後も稙宗に近侍し、稙宗の死後、殉死した。
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小梁川 |
宗朝 |
53 | 45 | 63 |
51 | 89 |
74 |
通常版 | 1484 |
収拾 |
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まきの | ひさなか |
武士 | 神仏 | 44 |
(1532-1575)伊達家臣。中野宗時の次男。桑折貞長とともに奥州守護代を務め、父とともに伊達家中の政務を取り仕切る。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れ、相馬領に逃れた。
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牧野 |
久仲 |
75 | 5 | 63 |
58 | 20 |
74 |
通常版 | 1547 |
挑発 |
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おかもと | けんいつ |
僧侶 | 神仏 | 38 |
(1559-1596)佐竹家臣。禅哲の子。僧体で佐竹義重・義宣2代に仕えた側近。外交面で活躍したほか、義重の三男・貞隆の岩城家入嗣に随行し、岩城家の執政に参画した。
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岡本 |
顕逸 |
62 | 6 | 63 |
64 | 53 |
18 |
通常版 | 1574 |
収拾 |
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すげのや | まささだ |
武士 | 神仏 | 61 |
(1528-1588)小田家臣。土浦城主。勝貞の子。佐竹家に奪われた小田城を奪還し、大掾家・宇都宮家などと戦うなど活躍したが、のちに主君・氏治とともに佐竹家に属した。
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菅谷 |
政貞 |
38 | 60 | 63 |
41 | 86 |
70 |
通常版 | 1543 |
突撃・1 |
挑発 |
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すげのや | のりまさ |
武士 | 神仏 | 50 |
(1559-1608)小田家臣。政頼(政貞の養子)の子。主君・氏治が居城・小田城を奪われるたびに居城に迎え、小田城の奪還に努めた。のちに旗本として徳川家に仕えた。
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菅谷 |
範政 |
27 | 53 | 63 |
37 | 81 |
70 |
通常版 | 1574 |
斉射・1 |
収拾 |
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ふくはら | すけたか |
武士 | 神仏 | 80 |
(1535-1614)那須七党の一。大田原資清の子。父が強制的に隠居させた福原資安の跡を継ぎ、兄・大関高増を補佐した。豊臣秀吉の小田原征伐に遅参し、所領を削られた。
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福原 |
資孝 |
45 | 37 | 63 |
46 | 36 |
55 |
通常版 | 1550 |
鼓舞 |
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ほうじょう | うじのり |
武士 | 神仏 | 56 |
(1545-1600)北条家臣。氏康の四男。人質として今川家にいた頃、同じ境遇の徳川家康と知り合う。豊臣秀吉の小田原征伐では韮山城に籠城するが、家康の説得で開城した。
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北条 |
氏規 |
61 | 60 | 63 |
68 | 55 |
86 |
通常版 | 1560 |
斉射・1 |
収拾 |
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おおくぼ | ただよ |
武士 | 神仏 | 63 |
(1532-1594)徳川家臣。忠員の長男。三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。
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大久保 |
忠世 |
22 | 65 | 63 |
45 | 86 |
94 |
通常版 | 1547 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
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はやし | ひでさだ |
武士 | 神仏 | 67 |
(1514-1580)織田家臣。筆頭家老。主家の家督争いでは信勝を擁立して敗れるが、許される。その後は目立つ働きがなく、のちに信勝擁立の件を蒸し返され、追放された。
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林 |
秀貞 |
52 | 20 | 63 |
61 | 41 |
78 |
通常版 | 1529 |
挑発 |
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ほり | ひでまさ |
武士 | 神仏 | 38 |
(1553-1590)織田家臣。各地で戦功を立てる一方、徳川家康の饗応役も務めるなど、文武の両面に才能を発揮した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、一門格の待遇を受けた。
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堀 |
秀政 |
67 | 58 | 63 |
63 | 75 |
02 |
通常版 | 1568 |
斉射・1 |
鼓舞 |
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やまがた | まさかげ |
武士 | 神仏 | 46 |
(1530-1575)武田家臣。武田四名臣の1人。兄・飯富虎昌と同様、軍装を赤で統一。内政・軍事・外交全般で主君・信玄を補佐した。長篠合戦で全身に銃弾を浴び戦死した。
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山県 |
昌景 |
59 | 84 | 63 |
62 | 87 |
57 |
通常版 | 1545 |
突撃・2 |
神速 |
挑発 |
やざわ | よりつな |
国人 | 神仏 | 80 |
(1518-1597)真田家臣。海野棟綱の子で、真田幸隆の弟。甥・昌幸が上野沼田城を攻略後、沼田城代となる。第一次上田合戦の際は、沼田城を守備した。武勇に秀でた。
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矢沢 |
頼綱 |
61 | 63 | 63 |
39 | 65 |
21 |
通常版 | 1533 |
槍衾・1 |
収拾 |
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うえすぎ | かげかつ |
武士 | 神仏 | 69 |
(1555-1623)出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となった。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。
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上杉 |
景勝 |
75 | 79 | 63 |
63 | 98 |
10 |
通常版 | 1570 |
突撃・2 |
鉄壁 |
鼓舞 |
こじま | もとしげ |
国人 | 神仏 | 65 |
(1523-1587)神保家臣。日宮城主。主君・長職とともに上杉家に属した。長職の死後は主家の実権を握る。のち越中に帰還した神保長住を幽閉し、主家滅亡の原因を作った。
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小島 |
職鎮 |
57 | 46 | 63 |
63 | 16 |
86 |
通常版 | 1538 |
破壊 |
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