武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
ふくはら | さだとし |
武士 | 神仏 | 82 |
(1512-1593)毛利家臣。筆頭家老を務めた。小早川隆景を補佐して山陽方面の経略を行う。主君・元就の死後、四人衆の1人となり当主・輝元を補佐して主家の国政に参画。
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福原 |
貞俊 |
70 | 45 | 72 |
59 | 70 |
31 |
通常版 | 1527 |
斉射・1 |
混乱 |
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うすき | あきつぐ |
武士 | 神仏 | 53 |
(1509-1561)大友家臣。筑前好士岳城督を務め、筑前経略に従事。また主家の外交事務を管理し、大内家との和睦や主君・宗麟の弟・晴英の大内家入嗣などをとりまとめた。
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臼杵 |
鑑続 |
72 | 37 | 72 |
68 | 59 |
89 |
通常版 | 1524 |
混乱 |
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さとみ | よしたか |
武士 | 神仏 | 63 |
(1512-1574)房総の戦国大名。父・実堯を殺した従兄弟・義豊を討ち、当主となる。国府台合戦では北条氏康に敗れたが、その後も房総に勢力を広げ、北条家と戦い続けた。
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里見 |
義堯 |
51 | 73 | 71 |
54 | 57 |
33 |
通常版 | 1527 |
突撃・1 |
挑発 |
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とき | ためより |
国人 | 神仏 | 90 |
(1494-1583)里見家臣。万喜城主。家中屈指の戦上手といわれ「万喜少弼」と呼ばれて恐れられた。第二次国府台合戦後に里見家を離反、北条家に属して里見家と戦った。
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土岐 |
為頼 |
51 | 65 | 71 |
36 | 44 |
22 |
通常版 | 1509 |
槍衾・1 |
破壊 |
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ほうじょう | つなしげ |
武士 | 神仏 | 73 |
(1515-1587)北条家臣。福島正成の子。父の死後、北条氏綱を頼り、氏綱の娘を娶って一門となる。河越合戦などで活躍し、その旗印より「地黄八幡」と呼ばれ畏怖された。
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北条 |
綱成 |
45 | 83 | 71 |
58 | 89 |
82 |
通常版 | 1530 |
突撃・2 |
神速 |
破壊 |
はちすか | いえまさ |
国人 | 神仏 | 81 |
(1558-1638)豊臣家臣。正勝の嫡男。関ヶ原合戦の際は子・至鎮を東軍に属させ、阿波徳島藩の安泰をはかる。以後も実質的に藩政を主導し、徳島藩の体制確立に貢献した。
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蜂須賀 |
家政 |
73 | 45 | 71 |
55 | 48 |
05 |
通常版 | 1573 |
収拾 |
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たけなか | しげかど |
武士 | 神仏 | 59 |
(1573-1631)豊臣家臣。半兵衛重治の嫡男。関ヶ原合戦では東軍に属し、粕子山中で小西行長を捕らえた。歌道・文筆に長じ、のちに豊臣秀吉の一代記「豊鏡」を著した。
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竹中 |
重門 |
63 | 47 | 71 |
71 | 72 |
04 |
通常版 | 1588 |
斉射・1 |
混乱 |
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みやべ | けいじゅん |
僧侶 | 神仏 | 72 |
(1528-1599)浅井家臣。はじめ比叡山の僧。主家滅亡後は織田信長に属す。羽柴秀吉率いる中国征伐軍の先鋒を務め、因幡鳥取城主となった。晩年は秀吉の御咄衆となった。
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宮部 |
継潤 |
59 | 54 | 71 |
68 | 32 |
03 |
通常版 | 1543 |
槍衾・1 |
挑発 |
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あかい | なおまさ |
武士 | 神仏 | 49 |
(1530-1578)丹波の豪族。時家の次男。兄・家清の戦死後、若年の甥・忠家を後見した。明智光秀の丹波平定軍を撃退するなど武勇に優れ「丹波の赤鬼」の異名をとった。
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赤井 |
直正 |
27 | 74 | 71 |
46 | 51 |
24 |
通常版 | 1545 |
突撃・1 |
破壊 |
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しま | きよおき |
武士 | 神仏 | 61 |
(1540-1600)筒井家臣。のち浪人し、石田三成に高禄で召し抱えられる。「三成に過ぎたるもの」と謳われた名将。関ヶ原合戦で縦横無尽の活躍をし、壮絶な戦死を遂げた。
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島 |
清興 |
18 | 82 | 71 |
55 | 94 |
15 |
通常版 | 1555 |
突撃・2 |
神速 |
鼓舞 |
まつら | しげのぶ |
海賊 | 神仏 | 66 |
(1549-1614)肥前の豪族。平戸城主。隆信の子。豊臣秀吉の九州征伐軍に従う。海外通商を行い、唐船・南蛮船の寄港に尽力。関ヶ原合戦で東軍に属し、所領を安堵された。
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松浦 |
鎮信 |
70 | 43 | 71 |
66 | 55 |
23 |
通常版 | 1564 |
破壊 |
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なんぶ | のぶなお |
重臣 | 神仏 | 54 |
(1546-1599)南部家26代当主。石川高信の子。晴継(晴政の子)死後の御家騒動に勝ち、家督を継ぐ。九戸政実の乱などに苦しむが豊臣秀吉に接近して領内を統一した。
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南部 |
信直 |
72 | 37 | 70 |
53 | 75 |
67 |
通常版 | 1561 |
挑発 |
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こおり | さだなが |
武士 | 神仏 | 53 |
(1517-1569)伊達家臣。播磨守と称す。主君・晴宗が奥州探題となった際、牧野久仲とともに奥州守護代となった。これに対して鷹や馬、および黄金30両などを進上した。
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桑折 |
貞長 |
72 | 39 | 70 |
55 | 35 |
70 |
通常版 | 1532 |
鼓舞 |
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さかい | ただよ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1572-1636)徳川家臣。大坂冬・夏の陣では全軍の参謀役を務めた。のちに土井利勝・青山忠俊とともに3代将軍家光の教育係に就任し、幕府の中枢を担う。老中も務めた。
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酒井 |
忠世 |
74 | 29 | 70 |
65 | 63 |
92 |
通常版 | 1587 |
収拾 |
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いたくら | かつしげ |
僧侶 | 神仏 | 80 |
(1545-1624)徳川家臣。はじめ僧侶であったが、父と弟の死により還俗、家督を継ぐ。駿府や江戸の町奉行を務めたあと、京都所司代となり、西国諸大名らの監視を行った。
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板倉 |
勝重 |
81 | 12 | 70 |
81 | 75 |
92 |
通常版 | 1560 |
収拾 |
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すだ | ながよし |
国人 | 一向宗 | 37 |
(1579-1615)上杉家臣。梁川城代。満親の子。関ヶ原合戦では本庄繁長と協力し、伊達政宗軍を福島口に撃破する。大坂の陣でも戦功を立て、徳川秀忠から感状をもらった。
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須田 |
長義 |
47 | 63 | 70 |
53 | 61 |
23 |
通常版 | 1594 |
槍衾・1 |
挑発 |
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ぬくい | ふささだ |
重臣 | 神仏 | 65 |
(1491-1555)畠山家臣。和歌に造詣深く、主君・義総の寵愛を得る。遊佐家を倒して主家の実権を握り、領内の動揺を招く。のちに権力奪回を目指す主君・義綱に殺された。
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温井 |
総貞 |
54 | 31 | 70 |
68 | 9 |
88 |
通常版 | 1506 |
鼓舞 |
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ちょうそかべ | くにちか |
武士 | 神仏 | 57 |
(1504-1560)土佐の戦国大名。岡豊城主。父・兼序の死後、一条房家を頼り、房家の援助により居城に復帰。婚姻外交と積極的な富国策で長宗我部家の再興に生涯を捧げた。
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長宗我部 |
国親 |
72 | 76 | 70 |
48 | 54 |
75 |
通常版 | 1519 |
槍衾・2 |
破壊 |
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くましろ | かつとし |
僧侶 | 神仏 | 55 |
(1511-1565)少弐家臣。肥前三瀬城主。「北山に枕し南海に足を浸す」という夢を買い取り、武運に恵まれる。龍造寺家臣・小田政光を討つなど、終生龍造寺家に対抗した。
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神代 |
勝利 |
45 | 69 | 70 |
65 | 71 |
28 |
通常版 | 1526 |
槍衾・1 |
混乱 |
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うじいえ | さだなお |
重臣 | 神仏 | 60 |
(1512-1571)最上家臣。天文の大乱の際には主君・義守の名代として出陣した。主家の御家騒動の際は、重病の身ながら義守を説得して義光への家督譲り渡しを実現させた。
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氏家 |
定直 |
58 | 50 | 69 |
58 | 84 |
98 |
通常版 | 1527 |
斉射・1 |
収拾 |
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