武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
ふうま | こたろう |
忍者 | 神仏 | 80 |
(1537-1616)相州乱波の頭領。情報収集や敵地撹乱に奔走し、北条家の治政を陰から支えた。身長は7尺2寸、目はさかさまに裂け、口からは牙が4本飛び出ていたという。
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風魔 |
小太郎 |
4 | 67 | 76 |
15 | 44 |
82 |
通常版 | 1552 |
突撃・1 |
破壊 |
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あんとう | ちかすえ |
武士 | 神仏 | 49 |
(1539-1587)檜山安東家8代当主。舜季の嫡男。湊・檜山の両安東家を統一し、巧みな戦略で安東家最大の版図を築き上げ「斗星の北天に在るにさも似たり」と恐れられた。
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安東 |
愛季 |
78 | 70 | 75 |
67 | 53 |
35 |
通常版 | 1554 |
槍衾・1 |
混乱 |
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たきがわ | かずます |
忍者 | 神仏 | 62 |
(1525-1586)織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。
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滝川 |
一益 |
39 | 79 | 75 |
55 | 67 |
00 |
通常版 | 1540 |
斉射・2 |
破壊 |
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とよとみ | ひでなが |
庶民 | 神仏 | 52 |
(1540-1591)秀吉の異父弟。兄の片腕として、その覇業に貢献する。温和で人望高く、秀吉と他大名との折衝役を務めた。秀吉に先立って死去、諸将にその死を惜しまれた。
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豊臣 |
秀長 |
83 | 67 | 75 |
65 | 87 |
10 |
通常版 | 1555 |
斉射・1 |
収拾 |
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なおえ | かねつぐ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1560-1619)上杉家臣。筆頭家老を務めた。豊臣秀吉の評価は高く、陪臣ながら出羽米沢30万石を領した。関ヶ原合戦の際は西軍に属し、徳川家康に「直江状」を送った。
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直江 |
兼続 |
81 | 78 | 75 |
73 | 99 |
10 |
通常版 | 1575 |
斉射・2 |
神速 |
挑発 |
がもう | うじさと |
武士 | 基督教 | 40 |
(1556-1595)織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。
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蒲生 |
氏郷 |
80 | 77 | 75 |
72 | 78 |
04 |
通常版 | 1571 |
斉射・2 |
神速 |
鼓舞 |
すずき | しげかね |
国人 | 一向宗 | 50 |
(1540-1589)紀伊の豪族。佐大夫重意の子。平井に住み「平井の孫市」と呼ばれた。思慮深い人物で、雑賀党の背後にあって部族間の調整や政治工作といった役割を担った。
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鈴木 |
重兼 |
74 | 40 | 75 |
63 | 69 |
58 |
通常版 | 1555 |
混乱 |
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よしだ | たかより |
武士 | 神仏 | 75 |
(1495-1569)長宗我部家臣。主君・国親の妹を娶る。知勇兼備の将と評され、権謀術数を駆使する一方で、各地で戦功を立て、国親の片腕として主家の勢力拡大に貢献した。
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吉田 |
孝頼 |
58 | 47 | 75 |
68 | 42 |
75 |
通常版 | 1510 |
斉射・1 |
混乱 |
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しまづ | よしひろ |
守護 | 神仏 | 85 |
(1535-1619)島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
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島津 |
義弘 |
63 | 90 | 75 |
63 | 74 |
30 |
通常版 | 1550 |
斉射・2 |
神速 |
破壊 |
ぬまた | すけみつ |
国人 | 神仏 | 74 |
(1539-1612)津軽家臣。上野国沼田の出身。武者修業のため全国を行脚していた際に、為信の器量を見込んで仕官、その軍師となる。為信の津軽統一に多大な功績を残した。
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沼田 |
祐光 |
70 | 62 | 74 |
64 | 81 |
12 |
通常版 | 1554 |
斉射・1 |
混乱 |
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あしな | ししさい |
守護 | 神仏 | 60 |
(1521-1580)蘆名家16代当主。蘆名家を伊達家と並ぶ奥州屈指の大名に育て上げた、蘆名家中興の祖。同盟をうまく利用し、会津一円から北越後に及ぶ所領を獲得した。
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蘆名 |
止々斎 |
77 | 78 | 74 |
54 | 43 |
45 |
通常版 | 1536 |
突撃・2 |
混乱 |
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おおたわら | すけきよ |
武士 | 神仏 | 75 |
(1486-1560)那須七党の一。大田原城主。黒羽城主・大関増次を討って子・高増に大関家を継がせたり、娘を主君・政資の側室とするなど、那須家中で最大の勢力を築いた。
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大田原 |
資清 |
73 | 57 | 74 |
62 | 30 |
66 |
通常版 | 1501 |
槍衾・1 |
挑発 |
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たけだ | のぶしげ |
守護 | 神仏 | 37 |
(1525-1561)信虎の次男。文武に優れて人望も高く、兄・信玄の副将として活躍した。川中島合戦で本陣を守って奮戦、戦死した。後年「まことの武将」と高く評価される。
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武田 |
信繁 |
73 | 75 | 74 |
70 | 98 |
63 |
通常版 | 1540 |
突撃・1 |
鼓舞 |
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しもづま | ちゅうこう |
僧侶 | 一向宗 | 66 |
(1551-1616)本願寺の坊官。頼照の子という。石山合戦で活躍した。織田信長と本願寺の和議に際しては、法主・顕如に代わって血判した。能楽に長じ「童舞抄」を著した。
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下間 |
仲孝 |
65 | 41 | 74 |
72 | 71 |
51 |
通常版 | 1566 |
挑発 |
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まえだ | としつね |
武士 | 神仏 | 66 |
(1593-1658)加賀金沢藩主。利家の四男。兄・利長の跡を継ぐ。大坂の陣に参陣して功を立てた。藩の存続に努め、江戸幕府の警戒を欺くために愚鈍を装っていたともいう。
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前田 |
利常 |
79 | 61 | 74 |
66 | 75 |
00 |
PK追加 | 1608 |
斉射・1 |
混乱 |
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なんぶ | としなお |
重臣 | 神仏 | 57 |
(1576-1632)南部家27代当主。信直の子。父の死後に家督を継ぐ。関ヶ原合戦では東軍に属し、最上家を救援した。領内の一揆を平定するなど、南部藩の基礎を築いた。
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南部 |
利直 |
68 | 48 | 73 |
56 | 40 |
67 |
通常版 | 1591 |
斉射・1 |
混乱 |
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やしろ | かげより |
武士 | 神仏 | 46 |
(1563-1608)伊達家臣。14歳で政宗に近侍。知勇の才群を抜き、政宗不在時の留守居役を任された。しかし傲慢の振る舞いが多かったため改易され、流浪の末に病死した。
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屋代 |
景頼 |
16 | 33 | 73 |
62 | 27 |
65 |
通常版 | 1578 |
混乱 |
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はが | たかさだ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1529-1588)宇都宮家臣。益子勝宗の子。芳賀高経の死後、芳賀家を継ぐ。壬生家に乗っ取られた宇都宮城を奪還し、宿老として国政に参画、主家の勢力回復に尽力した。
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芳賀 |
高定 |
72 | 57 | 73 |
66 | 84 |
16 |
通常版 | 1544 |
槍衾・1 |
挑発 |
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いたべおか | こうせつさい |
僧侶 | 神仏 | 73 |
(1537-1609)北条家臣。右筆・評定衆を務めた。徳川家康との講和交渉や、豊臣秀吉との折衝など、対外交渉に手腕を発揮した。主家滅亡後は、秀吉に御咄衆として仕えた。
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板部岡 |
江雪斎 |
72 | 2 | 73 |
77 | 33 |
87 |
通常版 | 1552 |
収拾 |
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ないとう | まさとよ |
武士 | 神仏 | 54 |
(1522-1575)武田家臣。武田四名臣の1人。武田信繁の死後、主君・信玄の副将格となる。武略に優れ、箕輪城主として西上野方面の治政を担当した。長篠合戦で戦死した。
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内藤 |
昌豊 |
71 | 73 | 73 |
61 | 85 |
57 |
通常版 | 1537 |
突撃・1 |
収拾 |
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