武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
あさくら | そうてき |
僧侶 | 神仏 | 79 |
(1477-1555)朝倉家臣。朝倉家初代当主・敏景の子。軍奉行を務め、周辺諸国へ出兵し朝倉家の武威を内外に知らしめた。加賀一向一揆討伐の際に発病、帰国後に死去した。
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朝倉 |
宗滴 |
67 | 82 | 80 |
78 | 88 |
51 |
通常版 | 1492 |
突撃・2 |
破壊 |
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おおたに | よしつぐ |
武士 | 神仏 | 42 |
(1559-1600)豊臣家臣。関ヶ原合戦で西軍に属す。親友・石田三成のために病をおして奮戦、藤堂高虎の軍を撃退するが、寝返った小早川秀秋軍に攻められ敗北、自害した。
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大谷 |
吉継 |
81 | 79 | 80 |
69 | 99 |
20 |
通常版 | 1574 |
槍衾・2 |
鉄壁 |
鼓舞 |
さたけ | よししげ |
守護 | 神仏 | 66 |
(1547-1612)佐竹家18代当主。義昭の嫡男。父の遺志を継ぎ、常陸の統一に成功する。北条家と伊達家を敵に回し、陣頭で自ら采配を振るう姿は「鬼義重」と恐れられた。
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佐竹 |
義重 |
80 | 82 | 79 |
60 | 75 |
20 |
通常版 | 1562 |
突撃・2 |
神速 |
鼓舞 |
つのくま | せきそう |
武士 | 神仏 | 60 |
(1519-1578)大友家臣。主君・宗麟の軍師を務めた。立花道雪を弟子に持つ。宗麟の日向遠征に際して延期を進言したが拒否されたため、秘伝の書を焼いて出陣、戦死した。
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角隈 |
石宗 |
67 | 43 | 79 |
74 | 50 |
85 |
通常版 | 1534 |
混乱 |
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ゆうき | はるとも |
武士 | 神仏 | 82 |
(1533-1614)結城家17代当主。小山高朝の次男。伯父・政勝の養子となる。北条・上杉両家の間で離合集散を繰り返した。のちに徳川家康の次男・秀康を養子とした。
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結城 |
晴朝 |
80 | 41 | 78 |
56 | 16 |
41 |
通常版 | 1548 |
斉射・1 |
混乱 |
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おおぜき | たかます |
武士 | 神仏 | 72 |
(1527-1598)那須七党の一。大田原資清の子。大関・大田原・福原家を率い、伊王野・蘆野家と結び、大伯父として主君・資晴を後見するなど家中最大の勢力を築き上げた。
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大関 |
高増 |
72 | 61 | 78 |
63 | 40 |
66 |
通常版 | 1542 |
斉射・1 |
破壊 |
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いしだ | みつなり |
庶民 | 神仏 | 41 |
(1560-1600)豊臣家臣。五奉行の1人として国政に参画。主君・秀吉の死後、西軍総大将として徳川家康と関ヶ原で戦うが、諸将の統制をとれずに敗れ、京都で斬首された。
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石田 |
三成 |
88 | 40 | 78 |
73 | 98 |
20 |
通常版 | 1575 |
収拾 |
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よしおか | ながます |
武士 | 神仏 | 75 |
(1499-1573)大友家臣。豊後三老の1人。知略に優れた。大友家と毛利家が筑前で対峙した際は、大内義隆の従兄弟・輝弘を扇動して周防に侵攻させ、毛利軍を撤退させた。
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吉岡 |
長増 |
49 | 25 | 78 |
59 | 43 |
86 |
通常版 | 1514 |
収拾 |
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しまづ | たかひさ |
守護 | 神仏 | 58 |
(1514-1571)島津家15代当主。忠良の嫡男。父の補佐を受けて所領を広げ、薩摩統一を果たす。新兵器・鉄砲の導入や積極的な外交政策などで島津家飛躍の土台を築いた。
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島津 |
貴久 |
79 | 71 | 78 |
70 | 62 |
30 |
通常版 | 1529 |
斉射・1 |
収拾 |
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しまづ | りゅうはく |
守護 | 神仏 | 79 |
(1533-1611)島津家16代当主。貴久の嫡男。優秀な弟たちの協力により領土を拡大、九州をほぼ手中に収めるが、豊臣秀吉の九州征伐軍に敗北し、薩摩1国を安堵された。
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島津 |
龍伯 |
83 | 77 | 78 |
73 | 49 |
30 |
通常版 | 1548 |
斉射・2 |
神速 |
混乱 |
まえだ | げんい |
僧侶 | 神仏 | 64 |
(1539-1602)豊臣家臣。はじめ延暦寺の僧であったが還俗し、織田信忠に仕える。本能寺の変の際は信忠の嫡男・秀信を守って脱出した。のちに豊臣家五奉行の1人となる。
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前田 |
玄以 |
81 | 12 | 77 |
67 | 24 |
01 |
通常版 | 1554 |
収拾 |
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ほんがんじ | けんにょ |
僧侶 | 一向宗 | 50 |
(1543-1592)本願寺11世法主。証如の子。武家勢力に抵抗し、日本各地で一向宗門徒を蜂起させる。特に織田信長を「仏敵」と罵り10年の長きに渡って抗争を続けた。
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本願寺 |
顕如 |
84 | 81 | 77 |
81 | 48 |
50 |
通常版 | 1558 |
斉射・2 |
鼓舞 |
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たちばな | どうせつ |
武士 | 神仏 | 73 |
(1513-1585)大友家臣。立花城西城督。落雷で歩行不能となるが、輿に乗って常に大友軍の先陣を切り「鬼道雪」の異名をとった。生涯を軍陣で過ごした、家中随一の猛将。
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立花 |
道雪 |
48 | 88 | 77 |
63 | 94 |
84 |
通常版 | 1528 |
槍衾・3 |
軍神 |
挑発 |
みぶ | つなふさ |
武士 | 神仏 | 77 |
(1479-1555)宇都宮家臣。壬生城主。筆頭家老を務めた。権謀術数を駆使して主君の忠綱・興綱を死に追いやり、興綱の子・尚綱が戦死したのち、宇都宮城を乗っ取った。
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壬生 |
綱房 |
70 | 45 | 76 |
55 | 8 |
13 |
通常版 | 1494 |
鼓舞 |
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こうさか | まさのぶ |
武士 | 神仏 | 52 |
(1527-1578)武田家臣。武田四名臣の1人。主君・信玄の小姓から侍大将となる。武略・用兵は家中随一といわれ「逃げ弾正」と呼ばれた。「甲陽軍鑑」の原著者という。
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高坂 |
昌信 |
67 | 77 | 76 |
63 | 88 |
57 |
通常版 | 1542 |
突撃・2 |
混乱 |
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みつぎ | なおより |
武士 | 神仏 | 58 |
(1497-1554)飛騨の豪族。桜洞城を築いて居城とし、版図を拡大する。飛騨国司・姉小路家や美濃の土岐家、本願寺などと友好関係を結び、飛騨国内に一大勢力を築いた。
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三木 |
直頼 |
72 | 64 | 76 |
61 | 28 |
47 |
通常版 | 1512 |
突撃・1 |
破壊 |
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やぎゅう | むねのり |
剣豪 | 神仏 | 76 |
(1571-1646)徳川家臣。宗厳の子。兵法師範を務め、主君・秀忠に柳生新陰流を伝授した。秀忠の死後は、秀忠の子・家光に仕える。のちに大目付となり、1万石を領した。
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柳生 |
宗矩 |
63 | 36 | 76 |
63 | 10 |
81 |
通常版 | 1586 |
槍衾・1 |
破壊 |
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あんこくじ | えけい |
僧侶 | 神仏 | 63 |
(1538-1600)毛利家臣。武田信重の子。武田家滅亡時に逃れ出家。外交僧を務めた。織田信長と豊臣秀吉の将来を予言した事で著名。関ヶ原合戦で西軍に属し、斬首された。
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安国寺 |
恵瓊 |
81 | 12 | 76 |
80 | 15 |
31 |
通常版 | 1553 |
混乱 |
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うえむら | よりおき |
武士 | 神仏 | 68 |
(1490-1557)相良家臣。肥後上村城主。子・晴広を継嗣とする約束で主君・義滋に協力する。義滋政権の陰の実力者として、その実現と存続のために義兄や実弟を謀殺した。
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上村 |
頼興 |
60 | 38 | 76 |
65 | 27 |
55 |
通常版 | 1505 |
混乱 |
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いじゅういん | ただあき |
重臣 | 神仏 | 65 |
(1502-1566)島津家臣。知勇に優れ、主家の薩摩統一に貢献した。大隅加治木城攻めの際には日本で初めて鉄砲を実戦に使用した。のちに老中に就任し、国政に参画した。
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伊集院 |
忠朗 |
68 | 64 | 76 |
67 | 43 |
08 |
通常版 | 1517 |
斉射・1 |
混乱 |
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