武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
おだ | ひでのぶ |
守護代 | 神仏 | 26 |
(1580-1605)信忠の嫡男。本能寺の変後、羽柴秀吉に擁立されて3歳で織田家を継ぐが、実権は秀吉に奪われた。関ヶ原合戦で西軍に加担して敗北し、高野山で出家した。
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織田 |
秀信 |
44 | 32 | 10 |
23 | 75 |
01 |
通常版 | 1595 |
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おだ | のぶかね |
守護代 | 神仏 | 72 |
(1543-1614)信秀の四男。越前攻めや石山本願寺攻めに参戦した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の子・秀頼の傅役を務めた。娘は秀吉の側室となり、寵愛された。
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織田 |
信包 |
50 | 44 | 21 |
56 | 53 |
01 |
通常版 | 1558 |
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おだ | うらくさい |
守護代 | 神仏 | 75 |
(1547-1621)信秀の十男。有楽斎と号す。茶の湯に傾倒し、利休七哲の1人となった。兄・信長の死後は豊臣家に属すが、大坂の陣直前に徳川方に通じ、大坂城を退去した。
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織田 |
有楽斎 |
39 | 7 | 1 |
78 | 31 |
01 |
通常版 | 1562 |
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おだ | のぶみつ |
守護代 | 神仏 | 40 |
(1516-1555)信定の子。武勇に優れ、今川家との小豆坂合戦では殿軍を務めた。甥・信長の清洲城攻略戦で活躍し、那古野城主となるが、その数カ月後に家臣に謀殺された。
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織田 |
信光 |
45 | 52 | 46 |
38 | 50 |
01 |
通常版 | 1531 |
斉射・1 |
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かわじり | ひでなが |
武士 | 神仏 | 47 |
(1554-1600)豊臣家臣。苗木城主。秀隆の子。小牧長久手合戦や小田原征伐などに従軍した。朝鮮派兵では肥前名護屋城に在陣する。関ヶ原合戦で西軍に属し、戦死した。
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河尻 |
秀長 |
11 | 29 | 27 |
27 | 51 |
01 |
通常版 | 1569 |
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たきがわ | ますしげ |
忍者 | 神仏 | 70 |
(1523-1592)滝川家臣。一益の従兄弟。甥とも。本能寺の変後、一益とともに柴田勝家に属し北伊勢で羽柴秀吉軍と激戦を展開。のち秀吉に仕え、九州征伐などに従軍した。
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滝川 |
益重 |
23 | 66 | 28 |
38 | 55 |
01 |
通常版 | 1538 |
斉射・1 |
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はちや | よりたか |
武士 | 神仏 | 56 |
(1534-1589)織田家臣。黒母衣衆の1人。斎藤家を経て織田信長に仕える。以後は遊軍を率いて各地で活躍した。本能寺の変後は豊臣秀吉に属し、越前敦賀5万石を領した。
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蜂屋 |
頼隆 |
18 | 53 | 36 |
34 | 58 |
01 |
通常版 | 1549 |
突撃・1 |
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ふるた | しげなり |
武士 | 神仏 | 72 |
(1544-1615)豊臣家臣。織部正に任官される。利休七哲の1人。織部焼を創始し、諸大名の茶の師匠を務めた。大坂の陣の際、豊臣方への内通疑惑により、自害させられた。
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古田 |
重然 |
54 | 5 | 1 |
76 | 14 |
01 |
通常版 | 1559 |
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もり | よしなり |
武士 | 神仏 | 48 |
(1523-1570)織田家臣。尾張統一戦や桶狭間合戦などで活躍した。宇佐山城主を務め、琵琶湖の南岸を固める。のちに浅井・朝倉連合軍の攻撃を受け、衆寡敵せず戦死した。
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森 |
可成 |
26 | 59 | 55 |
47 | 81 |
01 |
通常版 | 1538 |
槍衾・1 |
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もり | ながよし |
武士 | 神仏 | 27 |
(1558-1584)織田家臣。可成の嫡男。伊勢長島一向一揆鎮圧や武田家征伐に参戦し「鬼武蔵」の異名をとった。本能寺の変後は豊臣秀吉に従い、小牧長久手合戦で戦死した。
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森 |
長可 |
20 | 55 | 27 |
46 | 63 |
01 |
通常版 | 1573 |
突撃・1 |
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まえだ | げんい |
僧侶 | 神仏 | 64 |
(1539-1602)豊臣家臣。はじめ延暦寺の僧であったが還俗し、織田信忠に仕える。本能寺の変の際は信忠の嫡男・秀信を守って脱出した。のちに豊臣家五奉行の1人となる。
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前田 |
玄以 |
81 | 12 | 77 |
67 | 24 |
01 |
通常版 | 1554 |
収拾 |
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あまご | かつひさ |
守護代 | 神仏 | 26 |
(1553-1578)誠久の子。山中幸盛らに擁立され、尼子家の再興を目指す。織田信長を頼り、出雲入国を試みるが失敗し、のちに播磨上月城の戦いで毛利軍に敗れ、自害した。
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尼子 |
勝久 |
28 | 44 | 18 |
63 | 73 |
01 |
通常版 | 1568 |
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やまなか | ゆきもり |
武士 | 神仏 | 34 |
(1545-1578)尼子家臣。三日月に対し「我に七難八苦を…」と願ったという。尼子勝久を擁して主家再興を企むが、播磨上月城で毛利軍に敗れ、安芸への護送中に殺された。
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山中 |
幸盛 |
14 | 72 | 37 |
54 | 100 |
01 |
通常版 | 1560 |
槍衾・2 |
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ふるた | しげかつ |
武士 | 神仏 | 47 |
(1560-1606)豊臣家臣。父・重則が播磨三木城攻めで戦死した後、家督を継ぐ。伊勢松坂3万5千石を領した。関ヶ原合戦では東軍に属して戦い、戦後2万石を加増された。
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古田 |
重勝 |
53 | 54 | 43 |
42 | 73 |
01 |
PK追加 | 1575 |
斉射・1 |
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