武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
すげのや | かつさだ |
武士 | 神仏 | 62 |
(1497-1558)小田家臣。土浦城主。1516年、土浦城を築いた豪族・若泉五郎左衛門を討って土浦城を奪い、居城とした。近隣の豪族や上杉・佐竹家などと各地で戦った。
|
菅谷 |
勝貞 |
45 | 67 | 69 |
43 | 93 |
70 |
通常版 | 1512 |
突撃・1 |
破壊 |
|
ほうじょう | げんあん |
僧侶 | 神仏 | 97 |
(1493-1589)北条家臣。早雲の三男。北条家5代に仕え、箱根権現の第40世別当を務めた。主君・氏康の娘が吉良家に嫁ぐ際、「幻庵おほへ書」という心得書を与えた。
|
北条 |
幻庵 |
75 | 21 | 69 |
79 | 69 |
82 |
通常版 | 1508 |
混乱 |
|
|
いまがわ | よしもと |
高家 | 神仏 | 42 |
(1519-1560)今川家9代当主。異母兄・玄広恵探を倒して家督を継ぐ。甲相駿三国同盟を結んで後顧の憂いを断ち、上洛の途につくが桶狭間で織田信長の奇襲を受け、絶命。
|
今川 |
義元 |
80 | 73 | 69 |
77 | 44 |
41 |
通常版 | 1534 |
槍衾・2 |
鼓舞 |
|
むらい | さだかつ |
武士 | 神仏 | 63 |
(1520-1582)織田家臣。家中随一の吏僚。京都所司代を務め、京の治安維持、禁裏の修築などに従事し、主君・信長の内政を助けた。本能寺の変の際、二条御所で戦死した。
|
村井 |
貞勝 |
88 | 13 | 69 |
76 | 61 |
00 |
通常版 | 1535 |
鼓舞 |
|
|
きそ | よしあり |
国人 | 神仏 | 66 |
(1493-1558)信濃木曾谷の豪族。温和な人柄で、父・義元の頃から対立状態にあった飛騨の三木家との関係修復に尽力、領内の治政安定に努めた。「風流太守」と呼ばれた。
|
木曾 |
義在 |
74 | 41 | 69 |
69 | 76 |
83 |
通常版 | 1508 |
挑発 |
|
|
ほんがんじ | しょうにょ |
僧侶 | 一向宗 | 39 |
(1516-1554)本願寺10世法主。日蓮宗徒と六角定頼に山科本願寺を焼き討ちされ、石山本願寺に本山を移した。蓮如の書状を集めて出版し、諸方の末寺や門徒に配った。
|
本願寺 |
証如 |
81 | 72 | 69 |
79 | 70 |
52 |
通常版 | 1531 |
槍衾・2 |
鼓舞 |
|
しちり | よりちか |
僧侶 | 一向宗 | 65 |
(1517-1581)加賀の本願寺の代官。一向宗門徒の要請により富田長繁を討つが、翌年、織田信長の討伐軍に降る。のち法主・顕如の命によって松任城主・鏑木頼信を討った。
|
七里 |
頼周 |
46 | 54 | 69 |
60 | 32 |
51 |
通常版 | 1532 |
槍衾・1 |
挑発 |
|
つつい | じゅんけい |
僧侶 | 神仏 | 36 |
(1549-1584)大和の国衆。順昭の嫡男。父・順昭の夭逝により2歳で家督を継ぐ。松永久秀と争い、居城・筒井城を追われたが、のちに織田信長に従属して勢力を回復した。
|
筒井 |
順慶 |
72 | 45 | 69 |
71 | 42 |
05 |
通常版 | 1550 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
|
すずき | しげとも |
国人 | 一向宗 | 63 |
(1561-1623)豊臣家臣。重秀の子。朝鮮派兵に参加した。関ヶ原合戦では西軍に属し、伏見城を守る鳥居元忠を討つ戦功を立てた。戦後、浪人したのち水戸徳川家に仕えた。
|
鈴木 |
重朝 |
13 | 70 | 69 |
51 | 49 |
52 |
通常版 | 1576 |
斉射・1 |
鼓舞 |
|
しじ | ひろよし |
武士 | 神仏 | 91 |
(1467-1557)毛利家臣。主君・元就の毛利家相続に尽力。のちに元就の要請で元就の子・隆元の後見役を務めた。隆元に「君は船、臣は水にて候」と当主のあり方を説いた。
|
志道 |
広良 |
68 | 39 | 69 |
65 | 56 |
35 |
通常版 | 1482 |
鼓舞 |
|
|
すえ | はるかた |
武士 | 神仏 | 35 |
(1521-1555)大内家臣。興房の子。「西国無双の侍大将」と評された。主君・義隆を自害させ大友晴英を当主に迎えて主家を傀儡化した。厳島合戦で毛利元就に敗れ、自害。
|
陶 |
晴賢 |
67 | 78 | 69 |
45 | 50 |
64 |
通常版 | 1536 |
突撃・1 |
破壊 |
|
よしだ | しげとし |
武士 | 神仏 | 75 |
(1500-1574)長宗我部家臣。孝頼の弟。安芸国虎との戦いの際は、調略を用いて安芸家中を内部崩壊に導いた。知略に優れた武将で、兄とともに主家の版図拡大に貢献した。
|
吉田 |
重俊 |
38 | 46 | 69 |
54 | 54 |
75 |
通常版 | 1515 |
収拾 |
|
|
どい | そうさん |
武士 | 神仏 | 60 |
(1513-1572)土佐一条家臣。放蕩三昧の主君・兼定に対してたびたび諫言を行うが、兼定の勘気を蒙り手討ちにされた。これが家臣の離反を招き、兼定追放の一因となった。
|
土居 |
宗珊 |
66 | 54 | 69 |
73 | 82 |
92 |
通常版 | 1528 |
槍衾・1 |
混乱 |
|
ふかみ | ながとも |
重臣 | 神仏 | 60 |
(1531-1590)相良家臣。戦死した主君・義陽の子・忠房の地位を島津家に認めさせ、肥後国人一揆の際は上坂して誤解を解くなど、外交面で活躍し、主家の存続に尽力した。
|
深水 |
長智 |
74 | 33 | 69 |
72 | 87 |
49 |
通常版 | 1546 |
混乱 |
|
|
いじゅういん | ただむね |
重臣 | 神仏 | 53 |
(1547-1599)島津家臣。忠倉の子。老中を務めた。豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ、人質となった。秀吉から主家と同格の扱いを受けたため、主君・忠恒と対立して殺された。
|
伊集院 |
忠棟 |
66 | 40 | 69 |
63 | 9 |
13 |
通常版 | 1562 |
挑発 |
|
|
うわい | かくけん |
武士 | 神仏 | 45 |
(1545-1589)島津家臣。おもに日向方面で活躍した。また老中を務めて主君・義久の領国経営を補佐した。文芸に造詣が深く「伊勢守心得書」や「上井覚兼日記」を著した。
|
上井 |
覚兼 |
70 | 29 | 69 |
71 | 62 |
29 |
通常版 | 1560 |
混乱 |
|
|
やまだ | ありのぶ |
武士 | 神仏 | 66 |
(1544-1609)島津家臣。各地の合戦で活躍した。伊東家の滅亡後、日向高城主となる。耳川合戦の際は少数の兵で大友家の大軍から居城を守り抜き、主家の勝利に貢献した。
|
山田 |
有信 |
26 | 57 | 69 |
56 | 79 |
28 |
通常版 | 1559 |
斉射・1 |
挑発 |
|
だて | はるむね |
守護 | 神仏 | 59 |
(1519-1577)伊達家15代当主。稙宗の嫡男。父と対立して天文の大乱を引き起こすが、終息後に家督を相続。父と同じく、婚姻外交を駆使して伊達家の地位を不動にした。
|
伊達 |
晴宗 |
75 | 49 | 68 |
63 | 30 |
66 |
通常版 | 1534 |
斉射・1 |
破壊 |
|
えんどう | もとのぶ |
武士 | 神仏 | 54 |
(1532-1585)伊達家臣。中野宗時の失脚後、輝宗の厚い信任を受けて宿老となる。政事を担当し、織田信長などとも書簡をやりとりした。輝宗の死後、その墓前で殉死した。
|
遠藤 |
基信 |
76 | 21 | 68 |
59 | 95 |
74 |
通常版 | 1547 |
鼓舞 |
|
|
なかじょう | ふじすけ |
国人 | 神仏 | 93 |
(1482-1574)上杉家臣。主君・為景が関東管領・上杉顕定と戦った際は、為景に従い各地で活躍した。一時背くが、間もなく帰参。のち川中島合戦に従軍し、感状を受けた。
|
中条 |
藤資 |
46 | 67 | 68 |
53 | 55 |
88 |
通常版 | 1497 |
突撃・1 |
鼓舞 |
|