武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
ほんどう | ただちか |
国人 | 神仏 | 94 |
(1506-1599)出羽の豪族。本堂城主。朝親の子。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。秀吉の朝鮮派兵の際は、前田利長軍に属して肥前名護屋城に在城した。
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本堂 |
忠親 |
44 | 39 | 53 |
45 | 33 |
64 |
通常版 | 1521 |
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やまもと | はるゆき |
国人 | 神仏 | 69 |
(1493-1561)武田家臣。文武百般に通じ、主君・信玄の軍師を務めた。第四次川中島の合戦で「きつつきの戦法」を上杉謙信に見破られた責を負い、乱軍に突入し戦死した。
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山本 |
晴幸 |
27 | 72 | 81 |
67 | 40 |
64 |
通常版 | 1508 |
槍衾・2 |
混乱 |
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べっしょ | しげむね |
守護代 | 神仏 | 53 |
(1539-1591)別所家臣。就治の子。甥・長治を補佐する。長治が織田信長に背いた際は、これに従った。長治の死後、浪人生活を経て豊臣秀吉に仕え、九州征伐に従軍した。
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別所 |
重棟 |
48 | 45 | 36 |
49 | 43 |
64 |
通常版 | 1554 |
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ごとう | かつもと |
武士 | 神仏 | 42 |
(1538-1579)美作の豪族。三星城主。勝国の子。近隣豪族を支配下に置き、また尼子家や浦上家と友好を結んで、後藤家を隆盛に導いた。のち宇喜多直家に敗れて自害した。
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後藤 |
勝元 |
37 | 62 | 36 |
53 | 54 |
64 |
通常版 | 1553 |
突撃・1 |
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すえ | はるかた |
武士 | 神仏 | 35 |
(1521-1555)大内家臣。興房の子。「西国無双の侍大将」と評された。主君・義隆を自害させ大友晴英を当主に迎えて主家を傀儡化した。厳島合戦で毛利元就に敗れ、自害。
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陶 |
晴賢 |
67 | 78 | 69 |
45 | 50 |
64 |
通常版 | 1536 |
突撃・1 |
破壊 |
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すぎ | しげのり |
武士 | 神仏 | 56 |
(1496-1551)大内家臣。豊前守護代を務めた。はじめ陶晴賢と対立するが、晴賢の謀叛に同調し、主君・義隆を自害させた。のち再び晴賢と対立して敗れ、長門で自害した。
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杉 |
重矩 |
54 | 48 | 29 |
39 | 54 |
64 |
通常版 | 1511 |
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ひろなか | たかかね |
武士 | 神仏 | 46 |
(1510-1555)大内家臣。安芸守護代を務めた。陶晴賢の謀叛後は大内義長に仕える。のちに晴賢の命により江良房栄を謀殺した。晴賢に従って厳島合戦に従軍し、敗死した。
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弘中 |
隆兼 |
45 | 55 | 56 |
52 | 82 |
64 |
通常版 | 1525 |
槍衾・1 |
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