武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
しみず | やすひで |
国人 | 神仏 | 60 |
(1532-1591)北条家臣。伊豆衆の筆頭。北条氏康の側近として各地で功を立てた。豊臣秀吉の小田原征伐では下田城に籠城し、豊臣水軍を相手に善戦するが敗れ、降伏した。
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清水 |
康英 |
18 | 58 | 36 |
31 | 72 |
83 |
通常版 | 1547 |
斉射・1 |
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きそ | よしあり |
国人 | 神仏 | 66 |
(1493-1558)信濃木曾谷の豪族。温和な人柄で、父・義元の頃から対立状態にあった飛騨の三木家との関係修復に尽力、領内の治政安定に努めた。「風流太守」と呼ばれた。
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木曾 |
義在 |
74 | 41 | 69 |
69 | 76 |
83 |
通常版 | 1508 |
挑発 |
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はたけやま | よしつぐ |
守護 | 神仏 | 73 |
(1518-1590)能登守護。義総の嫡男。相次ぐ内乱で権力を失い、重臣の台頭を許す。子・義綱と協力して実権を回復するが、のちに重臣たちに反発され、能登を追放された。
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畠山 |
義続 |
50 | 29 | 23 |
53 | 48 |
83 |
通常版 | 1533 |
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はたけやま | よしつな |
守護 | 神仏 | 58 |
(1536-1593)能登守護。義続の嫡男。父とともに実権の回復に尽力するが、重臣らに追放されて失敗に終わる。その後、何度も能登入国を試みるが、すべて失敗に終わった。
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畠山 |
義綱 |
62 | 55 | 41 |
59 | 79 |
83 |
通常版 | 1551 |
突撃・1 |
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はたけやま | よしたか |
守護 | 神仏 | 20 |
(1557-1576)能登の戦国大名。義綱の子。兄・義慶が当主となると、二本松伊賀守と名乗って義慶を補佐した。義慶の死後、畠山家の家督を相続するが、間もなく急死した。
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畠山 |
義隆 |
40 | 36 | 10 |
43 | 54 |
83 |
通常版 | 1572 |
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ゆさ | のぶのり |
武士 | 神仏 | 51 |
(1524-1574)畠山家臣。長教の子。河内守護代を務めた。主君・高政を紀伊に追放し、高政の弟・昭高を擁立。その昭高をも暗殺するが、のちに織田信長によって討たれた。
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遊佐 |
信教 |
38 | 46 | 68 |
59 | 44 |
83 |
通常版 | 1539 |
混乱 |
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やまな | すけとよ |
高家 | 神仏 | 70 |
(1511-1580)但馬守護。出石城主。叔父・誠豊の養子となって家督を継ぐ。弟・豊定を因幡に派遣し、但馬・因幡両国を支配した。のち羽柴秀吉に攻められ敗北、降伏した。
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山名 |
祐豊 |
57 | 45 | 47 |
59 | 45 |
83 |
通常版 | 1526 |
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やまな | とよさだ |
高家 | 神仏 | 49 |
(1512-1560)因幡守護。鳥取城主。叔父・誠豊の死後兄・祐豊の命により因幡に入る。因幡守護を自称して主家に対抗する山名誠通を討つなど、因幡の領国経営に尽力した。
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山名 |
豊定 |
54 | 46 | 50 |
61 | 63 |
83 |
通常版 | 1527 |
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ひさたけ | ちかなお |
武士 | 神仏 | 60 |
(1546-1605)長宗我部家臣。策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込み、主家滅亡の因を作った。兄・親信は主君・元親に「弟は必ず主家に仇をなす」と語っていたという。
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久武 |
親直 |
55 | 26 | 73 |
54 | 7 |
83 |
通常版 | 1561 |
混乱 |
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なかやま | てるもり |
武士 | 神仏 | 65 |
(1570-1634)北条家臣。家範の子。主家滅亡後は徳川家康に仕える。関ヶ原合戦や大坂の陣に従軍し、のちに槍奉行となった。馬術の達人で、高麗八条流の奥義をきわめた。
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中山 |
照守 |
10 | 68 | 6 |
15 | 75 |
83 |
PK追加 | 1585 |
突撃・1 |
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