武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
さかい | ただよ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1572-1636)徳川家臣。大坂冬・夏の陣では全軍の参謀役を務めた。のちに土井利勝・青山忠俊とともに3代将軍家光の教育係に就任し、幕府の中枢を担う。老中も務めた。
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酒井 |
忠世 |
74 | 29 | 70 |
65 | 63 |
92 |
通常版 | 1587 |
収拾 |
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ほんだ | ただとも |
武士 | 神仏 | 34 |
(1582-1615)徳川家臣。忠勝の次男。関ヶ原合戦に従軍し、戦後、上総大多喜5万石を領す。大坂夏の陣では天王寺口の先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入、戦死した。
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本多 |
忠朝 |
24 | 64 | 48 |
46 | 68 |
92 |
通常版 | 1597 |
突撃・1 |
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わたなべ | もりつな |
武士 | 一向宗 | 79 |
(1542-1620)徳川家臣。各地を転戦して戦功を立て、「槍の半蔵」の異名をとる。関ヶ原合戦には旗本として参陣。晩年は尾張徳川家の家老となり、当主・義直を補佐した。
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渡辺 |
守綱 |
3 | 66 | 13 |
25 | 69 |
92 |
通常版 | 1557 |
槍衾・1 |
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いたくら | かつしげ |
僧侶 | 神仏 | 80 |
(1545-1624)徳川家臣。はじめ僧侶であったが、父と弟の死により還俗、家督を継ぐ。駿府や江戸の町奉行を務めたあと、京都所司代となり、西国諸大名らの監視を行った。
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板倉 |
勝重 |
81 | 12 | 70 |
81 | 75 |
92 |
通常版 | 1560 |
収拾 |
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おだ | のぶたか |
守護代 | 神仏 | 26 |
(1558-1583)信長の三男。伊勢の豪族・神戸具盛の養子となり、家督を継ぐ。本能寺の変後、柴田勝家と結んで羽柴秀吉に対抗するが敗れ、秀吉の命により自害させられた。
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織田 |
信孝 |
31 | 54 | 17 |
54 | 36 |
92 |
通常版 | 1573 |
斉射・1 |
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たかしま | まさしげ |
武士 | 神仏 | 70 |
(1567-1636)長宗我部家臣。主君・元親の近習を務めた。主家の改易後は山内家に出仕した。文筆の才に恵まれ書も巧みで、元親の三十三回忌に際して「元親記」を著した。
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高島 |
正重 |
64 | 3 | 63 |
67 | 62 |
92 |
通常版 | 1582 |
鼓舞 |
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どい | そうさん |
武士 | 神仏 | 60 |
(1513-1572)土佐一条家臣。放蕩三昧の主君・兼定に対してたびたび諫言を行うが、兼定の勘気を蒙り手討ちにされた。これが家臣の離反を招き、兼定追放の一因となった。
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土居 |
宗珊 |
66 | 54 | 69 |
73 | 82 |
92 |
通常版 | 1528 |
槍衾・1 |
混乱 |
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かなもり | よししげ |
武士 | 神仏 | 58 |
(1558-1615)織田家臣。長屋景重の子で、長近の養子となる。養父の死後、家督を相続。大坂の陣に従軍し、功を立てた。養父と同じく茶の湯を好み、茶会記に名を残した。
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金森 |
可重 |
58 | 47 | 54 |
69 | 55 |
92 |
PK追加 | 1573 |
収拾 |
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