武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
さいとう | とものぶ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1527-1591)上杉家臣。川中島合戦や唐沢山城攻めなどで活躍し「越後の鐘馗」の異名をとった。御館の乱では上杉景勝に属す。私欲なく、行政にも優れた手腕を発揮した。
|
斎藤 |
朝信 |
64 | 75 | 73 |
63 | 79 |
15 |
通常版 | 1542 |
突撃・2 |
収拾 |
|
くろだ | ながまさ |
武士 | 神仏 | 56 |
(1568-1623)豊臣家臣。官兵衛孝高の嫡男。九州征伐などで活躍した。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後筑前福岡52万石を領す。以後は徳川幕府への恭順の姿勢を貫いた。
|
黒田 |
長政 |
77 | 63 | 73 |
69 | 44 |
07 |
通常版 | 1583 |
斉射・1 |
鼓舞 |
|
こうそかべ | ちかやす |
武士 | 神仏 | 51 |
(1543-1593)長宗我部国親の三男。阿波中富川合戦で十河存保軍を破るなど、兄・元親の片腕として四国統一に貢献した。織田家に使者として赴くなど、外交でも活躍した。
|
香宗我部 |
親泰 |
74 | 66 | 73 |
68 | 79 |
78 |
通常版 | 1558 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
|
たに | ただずみ |
僧侶 | 神仏 | 67 |
(1534-1600)長宗我部家臣。知略に優れ、外交を担当した。豊臣秀吉の四国征伐軍と戦うが、抗戦は無理と判断して主君・元親に和睦を勧め、主家を滅亡の危機から救った。
|
谷 |
忠澄 |
73 | 28 | 73 |
67 | 69 |
74 |
通常版 | 1549 |
収拾 |
|
|
ひさたけ | ちかなお |
武士 | 神仏 | 60 |
(1546-1605)長宗我部家臣。策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込み、主家滅亡の因を作った。兄・親信は主君・元親に「弟は必ず主家に仇をなす」と語っていたという。
|
久武 |
親直 |
55 | 26 | 73 |
54 | 7 |
83 |
通常版 | 1561 |
混乱 |
|
|
つくし | ひろかど |
国人 | 神仏 | 68 |
(1556-1623)肥前の豪族。五箇山城主。惟門の子。毛利・大友・龍造寺・島津家の間で離合集散を繰り返し、のちに豊臣秀吉に降る。関ヶ原合戦で西軍に属して改易された。
|
筑紫 |
広門 |
55 | 38 | 73 |
63 | 17 |
45 |
通常版 | 1571 |
収拾 |
|
|
うじいえ | もりむね |
重臣 | 神仏 | 63 |
(1534-1596)最上家臣。定直の子。知略に長け、天童家や白鳥家の討伐に貢献した。また伊達家への使者を務めたり、真室城の攻略で戦功を立てるなど、各方面で活躍した。
|
氏家 |
守棟 |
52 | 62 | 72 |
54 | 72 |
97 |
通常版 | 1549 |
突撃・1 |
破壊 |
|
おかもと | ぜんてつ |
僧侶 | 神仏 | 60 |
(1524-1583)佐竹家臣。僧体で義篤・義昭・義重3代に仕えた側近。白河結城家や古河公方と文書を交わすなど、外交面で重要な役割を果たし、佐竹一門に次ぐ地位を得た。
|
岡本 |
禅哲 |
71 | 2 | 72 |
70 | 57 |
18 |
通常版 | 1539 |
鼓舞 |
|
|
いしかわ | かずまさ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1533-1592)徳川家臣。家老を務め、西三河衆を率いて活躍した。小牧長久手合戦の後、豊臣家へ出奔。そのため、徳川家は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。
|
石川 |
数正 |
76 | 51 | 72 |
70 | 38 |
96 |
通常版 | 1548 |
斉射・1 |
挑発 |
|
はっとり | まさなり |
忍者 | 神仏 | 55 |
(1542-1596)徳川家臣。半三保長の子。父の跡を継ぎ隠密頭を務める。主君・家康の伊賀越えの際には、警護を担当し、無事に帰国させた。「鬼の半蔵」の異名をとった。
|
服部 |
正成 |
1 | 72 | 72 |
26 | 95 |
90 |
通常版 | 1557 |
槍衾・1 |
破壊 |
|
すだ | みつちか |
国人 | 一向宗 | 73 |
(1526-1598)信濃の豪族。信濃の一向一揆衆を指導した。のち上杉景勝に仕え、北陸の一向一揆対策の責任者となる。信濃海津城主を務め、徳川家康の信濃侵攻軍と戦った。
|
須田 |
満親 |
66 | 48 | 72 |
54 | 55 |
23 |
通常版 | 1541 |
鼓舞 |
|
|
うえすぎ | けんしん |
守護代 | 神仏 | 49 |
(1530-1578)越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。
|
上杉 |
謙信 |
54 | 99 | 72 |
72 | 100 |
15 |
通常版 | 1545 |
突撃・3 |
軍神 |
破壊 |
かわだ | ながちか |
武士 | 神仏 | 42 |
(1540-1581)上杉家臣。近江の出身。上杉謙信が上洛した際に召し出され、家臣となる。上杉家の北陸攻略に大きく貢献した。のちに松倉城主となり、織田信長軍と戦った。
|
河田 |
長親 |
65 | 51 | 72 |
63 | 54 |
15 |
通常版 | 1555 |
斉射・1 |
鼓舞 |
|
なおえ | かげつな |
武士 | 神仏 | 70 |
(1509-1578)上杉家臣。与板城主。主君・謙信の信頼厚く、側近として内政・外交に辣腕を振るう。のちに謙信の旧名・景虎から一字を拝領し、実綱から景綱へと改名した。
|
直江 |
景綱 |
74 | 58 | 72 |
72 | 85 |
12 |
通常版 | 1524 |
斉射・1 |
収拾 |
|
はやし | らざん |
商人 | 神仏 | 75 |
(1583-1657)徳川家臣。林家朱子学の祖。以心崇伝とともに方広寺鐘銘事件で豊臣秀頼を誹謗し、大坂の陣のきっかけを作った。のちに幕政に参画、各種公文書を起草した。
|
林 |
羅山 |
79 | 1 | 72 |
82 | 12 |
80 |
通常版 | 1598 |
挑発 |
|
|
ほんがんじ | きょうにょ |
僧侶 | 一向宗 | 57 |
(1558-1614)本願寺12世法主。顕如の長男。気性が激しく、織田信長との和睦後も徹底抗戦を主張した。父の死後、法主の座を巡り弟・准如と対立、東本願寺を建立した。
|
本願寺 |
教如 |
55 | 67 | 72 |
72 | 76 |
50 |
通常版 | 1573 |
斉射・1 |
混乱 |
|
みよし | よしかた |
守護代 | 神仏 | 36 |
(1527-1562)三好家臣。元長の次男。兄・長慶の畿内進出後、本国・阿波の経略を担当。長慶の片腕として内政、軍事に活躍したが、和泉久米田合戦で戦死。茶道に長じた。
|
三好 |
義賢 |
73 | 66 | 72 |
69 | 64 |
57 |
通常版 | 1542 |
槍衾・1 |
収拾 |
|
みよし | しょうがん |
守護代 | 神仏 | 80 |
(1508-1587)三好家臣。長慶の叔父。笑岩と号した。織田信長の上洛軍に敗れ、家臣となる。阿波・讃岐の国衆を多く信長方に誘引した。本能寺の変後は豊臣秀吉に従った。
|
三好 |
笑岩 |
69 | 36 | 72 |
66 | 31 |
75 |
通常版 | 1523 |
破壊 |
|
|
まつなが | ひさみち |
商人 | 神仏 | 40 |
(1538-1577)三好家臣。大和多聞山城主。久秀の子。父に従い、将軍・足利義輝の謀殺などに加担した。のちに織田信長に属すが、父とともに信長に背いて敗れ、自害した。
|
松永 |
久通 |
54 | 25 | 72 |
61 | 5 |
93 |
通常版 | 1553 |
破壊 |
|
|
きっかわ | ひろいえ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1561-1625)元春の三男。関ヶ原合戦で西軍の敗北を予想し、外交工作によって毛利家の存続をはかる。しかし宗家は防長2国に減封され、家中から裏切り者と非難された。
|
吉川 |
広家 |
72 | 41 | 72 |
65 | 42 |
41 |
通常版 | 1576 |
混乱 |
|
|