武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
ほうじょう | うじなお |
武士 | 神仏 | 30 |
(1562-1591)後北条家5代当主。氏政の嫡男。豊臣秀吉の上洛命令に応ぜず、秀吉の小田原征伐軍の攻撃を受けた。籠城3カ月ののち降伏、高野山に上り、同地で病没した。
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北条 |
氏直 |
52 | 37 | 31 |
58 | 75 |
86 |
通常版 | 1577 |
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ほうじょう | うじのり |
武士 | 神仏 | 56 |
(1545-1600)北条家臣。氏康の四男。人質として今川家にいた頃、同じ境遇の徳川家康と知り合う。豊臣秀吉の小田原征伐では韮山城に籠城するが、家康の説得で開城した。
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北条 |
氏規 |
61 | 60 | 63 |
68 | 55 |
86 |
通常版 | 1560 |
斉射・1 |
収拾 |
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じんぼう | ながなり |
守護代 | 神仏 | 40 |
(1544-1583)越中の豪族。父・長職が兄・長住を追放したあと家督を継ぐ。父の死後は家臣・小島職鎮に実権を握られた。長住が越中に戻ると、神保家の家督を返還した。
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神保 |
長城 |
33 | 36 | 25 |
46 | 35 |
86 |
通常版 | 1559 |
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こじま | もとしげ |
国人 | 神仏 | 65 |
(1523-1587)神保家臣。日宮城主。主君・長職とともに上杉家に属した。長職の死後は主家の実権を握る。のち越中に帰還した神保長住を幽閉し、主家滅亡の原因を作った。
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小島 |
職鎮 |
57 | 46 | 63 |
63 | 16 |
86 |
通常版 | 1538 |
破壊 |
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たわら | ちかいえ |
守護 | 基督教 | 81 |
(1561-1641)大友家臣。宗麟の次男。父の命で僧侶となるが、武術に励み、のちに還俗。島津義久に通じたため、所領を没収される。主家改易後は肥後細川家などに仕えた。
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田原 |
親家 |
24 | 54 | 22 |
59 | 59 |
86 |
通常版 | 1576 |
槍衾・1 |
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いちまだ | あきざね |
武士 | 神仏 | 54 |
(1535-1588)大友家臣。豊後小牟礼城主。生涯のほとんどを軍陣で過ごした一方で、主君・宗麟を招いて観桜会を開いた風流人。一族から謀叛人が出た責を負い、自害した。
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一萬田 |
鑑実 |
2 | 57 | 39 |
69 | 64 |
86 |
通常版 | 1550 |
突撃・1 |
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よしおか | ながます |
武士 | 神仏 | 75 |
(1499-1573)大友家臣。豊後三老の1人。知略に優れた。大友家と毛利家が筑前で対峙した際は、大内義隆の従兄弟・輝弘を扇動して周防に侵攻させ、毛利軍を撤退させた。
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吉岡 |
長増 |
49 | 25 | 78 |
59 | 43 |
86 |
通常版 | 1514 |
収拾 |
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よしひろ | あきただ |
武士 | 神仏 | 57 |
(1515-1571)大友家臣。豊後三老の1人。主君・義鎮の執政を補佐した。勢場ヶ原合戦で大内軍を撃退し、また多々良浜合戦で毛利軍を破るなど、多くの合戦で功を立てた。
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吉弘 |
鑑理 |
61 | 63 | 48 |
56 | 65 |
86 |
通常版 | 1530 |
突撃・1 |
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はらだ | たかたね |
国人 | 神仏 | 76 |
(1513-1588)筑前の豪族。高祖城主。大内家と結んで筑前西部に勢力を築き、大友家の軍勢をたびたび撃破した。原田家は藤原純友の乱の鎮定に功を立てた大蔵春実の嫡流。
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原田 |
隆種 |
25 | 66 | 38 |
35 | 32 |
86 |
通常版 | 1528 |
突撃・1 |
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たかはし | むねます |
武士 | 神仏 | 46 |
(1572-1617)大友家臣。高橋紹運の子。九州征伐後は豊臣家に属す。関ヶ原合戦では兄・宗茂とともに西軍に属し、戦後改易された。大坂の陣には徳川方として参陣した。
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高橋 |
統増 |
52 | 67 | 49 |
32 | 80 |
86 |
PK追加 | 1587 |
突撃・1 |
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