武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
えい | ひさとら |
武士 | 神仏 | 30 |
(1558-1587)島津家臣。耳川合戦、肥後水俣城攻撃、沖田畷合戦などに従軍し、各地で功を立てた。主君・義弘は「豊肥戦の勝利はすべて久虎のおかげだ」と語ったという。
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頴娃 |
久虎 |
14 | 64 | 62 |
42 | 70 |
30 |
通常版 | 1573 |
斉射・1 |
挑発 |
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にながわ | ちかなが |
高家 | 神仏 | 77 |
(1534-1610)足利家臣。主家滅亡後は長宗我部家に仕えた。関ヶ原合戦で長宗我部家が改易されたあと、一揆の鎮圧に活躍。のち故実に対する知識を買われ徳川家に仕えた。
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蜷川 |
親長 |
60 | 13 | 62 |
71 | 61 |
51 |
PK追加 | 1549 |
収拾 |
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いわき | しげたか |
武士 | 神仏 | 65 |
(1505-1569)陸奥大館城主。伊達家の内紛(天文の大乱)の際は、娘・久保が晴宗の妻であった関係から、晴宗方に属した。佐竹義篤ともたびたび争った。和歌をよくした。
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岩城 |
重隆 |
63 | 62 | 61 |
66 | 44 |
40 |
通常版 | 1520 |
槍衾・1 |
収拾 |
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とざわ | もりしげ |
武士 | 神仏 | 42 |
(1551-1592)戸沢家17代当主。角館城主。道盛の嫡男。病弱のため、早くに家督を弟・盛安に譲って出家する。のちに還俗し戸沢政重(祖父・秀盛の弟)の養子となった。
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戸沢 |
盛重 |
36 | 19 | 61 |
59 | 31 |
39 |
通常版 | 1566 |
鼓舞 |
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なかの | むねとき |
武士 | 神仏 | 73 |
(1503-1575)伊達家臣。天文の大乱では主君・晴宗の参謀を務め、乱の終息後は家中で最大の勢力を誇った。輝宗の代に謀叛を起こすが敗れて逃亡し、流浪の末、餓死した。
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中野 |
宗時 |
77 | 11 | 61 |
62 | 26 |
66 |
通常版 | 1518 |
挑発 |
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ゆうき | ともかつ |
武士 | 神仏 | 60 |
(1569-1628)宇都宮広綱の次男。結城晴朝の養子となるが、のちに徳川家康の次男・秀康が結城家に入嗣したため、宇都宮家に戻る。以後は反徳川、反結城の姿勢を貫いた。
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結城 |
朝勝 |
42 | 48 | 61 |
54 | 60 |
42 |
通常版 | 1584 |
収拾 |
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おおたわら | はるきよ |
武士 | 神仏 | 65 |
(1567-1631)那須七党の一。綱清の子。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、所領を安堵された。関ヶ原合戦では東軍に属し、上杉家の様子を探るなど活躍し、戦後加増された。
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大田原 |
晴清 |
58 | 37 | 61 |
52 | 45 |
66 |
通常版 | 1582 |
鼓舞 |
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あさの | よしなが |
武士 | 神仏 | 38 |
(1576-1613)豊臣家臣。長政の嫡男。関ヶ原合戦では東軍に属し、戦後、紀伊和歌山37万石を領する。のちに加藤清正と協力し、徳川家康と豊臣秀頼の会見を実現させた。
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浅野 |
幸長 |
62 | 57 | 61 |
48 | 58 |
97 |
通常版 | 1591 |
斉射・1 |
挑発 |
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とくなが | ながまさ |
武士 | 神仏 | 64 |
(1549-1612)柴田家臣。賤ヶ岳合戦の際、主君・勝豊とともに豊臣秀吉の傘下に入る。秀吉の死後、朝鮮に渡って全軍に撤退命令を伝えた。関ヶ原合戦では東軍に属した。
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徳永 |
寿昌 |
57 | 22 | 61 |
52 | 33 |
91 |
通常版 | 1564 |
鼓舞 |
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むらかみ | よしきよ |
国人 | 神仏 | 71 |
(1503-1573)信濃の豪族。葛尾城主。武田信玄軍の攻撃を2度も退け、近隣に勇名を轟かす。しかし、真田幸隆の計略に敗れて居城を失い、越後の長尾景虎の庇護を受けた。
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村上 |
義清 |
45 | 81 | 61 |
43 | 49 |
25 |
通常版 | 1518 |
突撃・2 |
破壊 |
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くつき | もとつな |
国人 | 神仏 | 84 |
(1549-1632)近江の豪族。晴綱の子。織田信長の越前撤退の際に道案内を務め、以後は織田家に属した。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕える。関ヶ原合戦では東軍に寝返った。
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朽木 |
元綱 |
60 | 37 | 61 |
50 | 19 |
61 |
通常版 | 1564 |
収拾 |
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たちばな | むねしげ |
武士 | 神仏 | 76 |
(1567-1642)大友家臣。高橋紹運の子。立花道雪の娘を娶る。豊臣秀吉に「忠義と剛勇は鎮西一」と評された。関ヶ原合戦で西軍に属して改易されるが、のち旧領に復した。
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立花 |
宗茂 |
54 | 83 | 61 |
55 | 97 |
84 |
通常版 | 1582 |
突撃・2 |
神速 |
混乱 |
いんどう | よりやす |
僧侶 | 神仏 | 86 |
(1521-1606)相良家臣。武勇に優れ、各地で活躍。肥後水俣城攻防戦では敵将・新納忠元と連歌を応酬した。主君・義陽の死後は、深水長智とともに幼主・頼房を補佐した。
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犬童 |
頼安 |
56 | 70 | 61 |
67 | 69 |
46 |
通常版 | 1536 |
槍衾・1 |
鼓舞 |
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いじち | しげおき |
国人 | 神仏 | 53 |
(1528-1580)大隅の豪族。小浜城主。肝付家と結んで島津家に対抗するが、島津軍に居城を落とされたため、降伏した。その後は島津家に属し、大友家攻めなどに従軍した。
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伊地知 |
重興 |
32 | 54 | 61 |
53 | 38 |
17 |
通常版 | 1543 |
斉射・1 |
鼓舞 |
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やまだ | ありなが |
武士 | 神仏 | 91 |
(1578-1668)島津家臣。有信の嫡男。伊集院忠真の謀叛鎮圧や関ヶ原合戦などで抜群の戦功を立てた。出水地頭を務め、家臣教育や産業開発などにも尽力した知勇兼備の将。
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山田 |
有栄 |
63 | 53 | 61 |
63 | 69 |
28 |
通常版 | 1593 |
斉射・1 |
鼓舞 |
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かわかみ | ひさあき |
武士 | 神仏 | 33 |
(1536-1568)島津家臣。忠克の子。島津家の看経所に名を残した4人のうちの1人。18歳の時には主君・義久から守護代に推されたという。薩摩大口城攻撃戦で戦死した。
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川上 |
久朗 |
51 | 64 | 61 |
63 | 55 |
56 |
通常版 | 1551 |
槍衾・1 |
挑発 |
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いちはさま | たかざね |
武士 | 神仏 | 45 |
(1549-1593)大崎家臣。真坂城主。伊豆守と称す。狩野姓も称した。一迫・狩野家は大崎一族の参謀を務めたという。天正末期の主家内乱に際しては、氏家吉継に味方した。
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一迫 |
隆真 |
48 | 17 | 60 |
38 | 33 |
95 |
通常版 | 1564 |
挑発 |
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くろかわ | はるうじ |
武士 | 神仏 | 77 |
(1523-1599)大崎家臣。鶴楯城主。黒川家は大崎家の庶流で、応永年間から伊達家に属す。1588年、伊達家の大崎領侵入の際は大崎家に味方し、伊達軍を撃破した。
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黒川 |
晴氏 |
33 | 72 | 60 |
48 | 47 |
88 |
通常版 | 1538 |
突撃・1 |
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しらかわ | よしちか |
高家 | 神仏 | 86 |
(1541-1626)白河結城家臣。結城顕頼の子。結城義綱の子ともいう。宗家の義顕を追放して宗家を乗っ取る。のちに佐竹義重に敗れ、義重の子・義広を養子に迎え隠居した。
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白河 |
義親 |
43 | 50 | 60 |
47 | 16 |
19 |
通常版 | 1556 |
挑発 |
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わだ | あきため |
重臣 | 神仏 | 75 |
(1534-1608)佐竹家臣。一時白河結城家に属すが、義昭・義重・義宣の3代に仕え、内政や外交など各方面で活躍。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際は国元に残り、国政を代行した。
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和田 |
昭為 |
69 | 52 | 60 |
64 | 39 |
22 |
通常版 | 1549 |
斉射・1 |
鼓舞 |
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