武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
おのざき | つぐみち |
国人 | 神仏 | 69 |
(1562-1630)常陸の豪族。額田城主。佐竹家に属したが自立性が強く何度も主家に反抗した。のちに謀叛を起こすが敗れ、松平忠輝などに仕えた。画に巧みであったという。
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小野崎 |
従通 |
29 | 16 | 30 |
57 | 25 |
71 |
通常版 | 1577 |
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おだ | ともはる |
高家 | 神仏 | 57 |
(1548-1604)氏治の庶長子。八田左近と称した。小田家と結んだ北条家に仕えた。主家滅亡後は豊臣家に仕え、朝鮮派兵の際には舟奉行を務め、伊勢で所領を与えられた。
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小田 |
友治 |
41 | 10 | 45 |
38 | 41 |
71 |
通常版 | 1563 |
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おだ | もりはる |
高家 | 神仏 | 54 |
(1557-1610)小田家16代当主。氏治の子。同盟を結んでいた北条家の滅亡後は結城秀康に仕える。妹が秀康の側室となったため、秀康の越前移封に従って越前へ移住した。
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小田 |
守治 |
35 | 26 | 25 |
48 | 55 |
71 |
通常版 | 1572 |
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ちば | しげたね |
守護 | 神仏 | 58 |
(1576-1633)千葉家31代当主。邦胤の嫡男。北条氏政の子・直重が千葉家30代当主となったため、人質として小田原城にあった。北条家の滅亡後は下総国に隠棲した。
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千葉 |
重胤 |
47 | 35 | 38 |
45 | 41 |
71 |
通常版 | 1591 |
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おやまだ | のぶあり |
国人 | 神仏 | 34 |
(1519-1552)武田家臣。越中守信有の子。出羽守を称した。志賀城攻略、上田原合戦などで活躍。戸石城攻略戦で重傷を負い、死去した。葬儀には1万人が参列したという。
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小山田 |
信有 |
38 | 58 | 41 |
43 | 42 |
71 |
通常版 | 1534 |
槍衾・1 |
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おやまだ | のぶしげ |
国人 | 神仏 | 38 |
(1545-1582)武田家臣。出羽守信有の子。投石を得意とする部隊を率いて各地の合戦で活躍。織田信長の甲斐侵攻軍に降るが、主君・勝頼の死後、裏切り者として斬られた。
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小山田 |
信茂 |
64 | 63 | 66 |
56 | 24 |
71 |
通常版 | 1560 |
斉射・1 |
挑発 |
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あとべ | かつすけ |
武士 | 神仏 | 36 |
(1547-1582)武田家臣。跡部家は信濃佐久郡の出身で甲斐守護代をも務めた名家。原昌胤とともに主君・勝頼の近侍を務めた。武田家滅亡時に諏訪で戦死。佞臣と評された。
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跡部 |
勝資 |
32 | 13 | 27 |
38 | 29 |
71 |
通常版 | 1562 |
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はじかの | まさつぐ |
武士 | 神仏 | 80 |
(1545-1624)武田家臣。川中島合戦において戦死した初鹿野源五郎の跡を継ぐ。主家滅亡後は徳川家康に仕え、小牧長久手合戦、小田原征伐、大坂の陣など各地で活躍した。
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初鹿野 |
昌次 |
27 | 46 | 45 |
27 | 55 |
71 |
通常版 | 1560 |
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きい | ながふさ |
武士 | 神仏 | 83 |
(1506-1588)城井宇都宮家15代当主。正房の子。早くから子・鎮房に家督を譲る。自らは下野宇都宮家の継嗣問題に2度関与した。のち鎮房とともに黒田長政に殺された。
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城井 |
長房 |
47 | 55 | 39 |
45 | 51 |
71 |
通常版 | 1521 |
槍衾・1 |
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きい | しげふさ |
武士 | 神仏 | 53 |
(1536-1588)城井宇都宮家16代当主。長房の子。大友、島津家に属して所領を保つ。のち豊臣秀吉に降るが、伊予への転封を拒否して謀叛を起こし、黒田長政に殺された。
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城井 |
鎮房 |
40 | 63 | 22 |
45 | 35 |
71 |
通常版 | 1551 |
突撃・1 |
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まつい | やすゆき |
武士 | 神仏 | 63 |
(1550-1612)足利家臣。主君・義輝の横死後は細川藤孝に仕え、丹後平定戦などで活躍した。関ヶ原合戦の際は東軍に属し、豊後杵築2万6千石を得た。茶人としても著名。
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松井 |
康之 |
61 | 61 | 45 |
67 | 77 |
71 |
PK追加 | 1565 |
槍衾・1 |
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