武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
いしかわ | | やすなが |
通常版 |
三河 |
1573 |
(1558-1642)徳川家臣。数正の子。父に従い主家を出奔、豊臣家に属す。父の死後、信濃松本6万石を相続。関ヶ原合戦では東軍に属す。のちに領地隠匿の罪で改易された。 |
石川 | | 康長 |
武将 | 弓 |
[逃亡] |
43 | 14 | 12 |
28 | 55 |
96 |
いしかわ | | いえなり |
通常版 |
三河 |
1549 |
(1534-1609)徳川家臣。数正の叔父。三河一向一揆平定戦で功を立てる。今川家滅亡後、掛川城主に就任。晩年は美濃大垣5万石を領した。家康への忠誠無二と評された。 |
石川 | | 家成 |
武将 | 弓 |
[収拾] [連射] |
40 | 44 | 44 |
45 | 75 |
89 |
おおくぼ | | ただとし |
通常版 |
三河 |
1514 |
(1499-1581)徳川家臣。主君・広忠の岡崎帰城に尽力し、また三河一向一揆が勃発した際には主君・家康を助けて一揆勢を撃破するなど、主家の苦難時代を支え続けた忠臣。 |
大久保 | 新八郎 | 忠俊 |
武将 | 騎馬 |
[訓練] [回復] |
20 | 63 | 31 |
7 | 90 |
99 |
おおくぼ | | ただかず |
通常版 |
三河 |
1526 |
(1511-1582)徳川家臣。兄・忠俊とともに主君・広忠の岡崎帰城に尽力。蟹江城攻めでも活躍した。三河一向一揆では一族の者とともに上和田砦に籠城し、一揆勢と戦った。 |
大久保 | 甚四郎 | 忠員 |
武将 | 弓 |
[回復] [連射] |
16 | 50 | 39 |
65 | 85 |
92 |
おおくぼ | | ただよ |
通常版 |
三河 |
1547 |
(1532-1594)徳川家臣。忠員の長男。三方ヶ原合戦、長篠合戦など多くの合戦に従軍し、その豪胆な性格で抜群の功を立て、織田信長や豊臣秀吉にも器量を高く評価された。 |
大久保 | 新十郎 | 忠世 |
武将 | 槍 |
[改修] [登用] [槍衾] |
24 | 62 | 62 |
60 | 90 |
94 |
おおくぼ | | ただちか |
通常版 |
三河 |
1568 |
(1553-1628)徳川家臣。忠世の嫡男。徳川秀忠の付家老を務める。秀忠および直参旗本からの信頼は絶大であったが、のちに政敵・本多正信の失脚工作によって改易された。 |
大久保 | 新十郎 | 忠隣 |
武将 | 鉄砲 |
[茶湯] [収拾] |
65 | 47 | 17 |
55 | 85 |
80 |
おおくぼ | | ただすけ |
通常版 |
三河 |
1552 |
(1537-1613)徳川家臣。忠員の次男。兄・忠世とともに各地で戦功を重ねる。その剛勇ぶりは織田信長をも賞嘆させるほどであった。関ヶ原合戦後、駿河沼津2万石を領す。 |
大久保 | 治右衛門 | 忠佐 |
武将 | 槍 |
[訓練] [捕縛] [攻城] |
17 | 65 | 54 |
51 | 90 |
94 |
とりい | | もとただ |
通常版 |
三河 |
1554 |
(1539-1600)徳川家臣。関ヶ原合戦の際に主君・家康の命で伏見城に籠城する。13日間の攻防戦の末、城兵とともに玉砕した。その忠節は「三河武士の鑑」と称賛された。 |
鳥居 | 彦右衛門 | 元忠 |
武将 | 弓 |
[守戦] [槍衾] |
10 | 61 | 35 |
7 | 100 |
90 |
はっとり | | やすなが |
通常版 |
三河 |
1528 |
(1513-1582)徳川家臣。伊賀忍者を率いて隠密頭を務めた。桶狭間合戦の際には大高城への兵糧入れに貢献。天正伊賀の乱の直前には甲賀衆を説得し、徳川家に随身させた。 |
服部 | 半三 | 保長 |
忍者 | 槍 |
[訓練] [捕縛] [混乱] |
4 | 76 | 76 |
15 | 100 |
94 |
はっとり | | はんぞう |
通常版 |
三河 |
1557 |
(1542-1596)徳川家臣。半三保長の子。父の跡を継ぎ隠密頭を務める。主君・家康の伊賀越えの際には、警護を担当し、無事に帰国させた。「鬼の半蔵」の異名をとった。 |
服部 | 正成 | 半蔵 |
忍者 | 槍 |
[訓練] [捕縛] [混乱] |
1 | 84 | 86 |
1 | 100 |
90 |
ひらいわ | | ちかよし |
通常版 |
三河 |
1557 |
(1542-1611)徳川家臣。温好篤実な性格から、主君・家康の絶大な信頼を受け、家康の長男・松平信康の傅役を務める。信康の自害後は家康の九男・義直の傅役となった。 |
平岩 | 七之助 | 親吉 |
武将 | 鉄砲 |
[登用] [雨撃] |
64 | 44 | 52 |
9 | 100 |
90 |
わたなべ | | もりつな |
通常版 |
三河 |
1557 |
(1542-1620)徳川家臣。各地を転戦して戦功を重ね、「槍の半蔵」の異名をとる。関ヶ原合戦には旗本として参陣。晩年は尾張徳川家の家老となり、当主・義直を補佐した。 |
渡辺 | 半蔵 | 守綱 |
一向宗 | 槍 |
[槍衾] |
5 | 61 | 15 |
50 | 65 |
92 |
あおやま | | ただなり |
通常版 |
三河 |
1566 |
(1551-1613)徳川家臣。徳川秀忠の傅役を務める。関ヶ原合戦後、内藤清成らとともに江戸奉行・関東総奉行を務めた。しかし、のちに主君・家康の勘気を受け、蟄居した。 |
青山 | 藤右衛門 | 忠成 |
武将 | 騎馬 |
[開墾] [治水] |
54 | 33 | 48 |
46 | 70 |
80 |
あおやま | | ただとし |
通常版 |
三河 |
1593 |
(1578-1643)徳川家臣。土井利勝らとともに徳川家光の傅役となる。家光の勘気を受けて改易されると、出仕要請を断り隠居した。子の宗俊は家光の子・家綱の傅役となる。 |
青山 | 藤五郎 | 忠俊 |
武将 | 槍 |
[訓練] |
40 | 31 | 13 |
18 | 65 |
85 |
あべ | | さだよし |
通常版 |
三河 |
1520 |
(1505-1549)松平家臣。息子・弥七郎が主君・清康を誤殺、その責任から自殺を図るが止められる。清康の子・広忠の岡崎帰城に尽力し、その後は補佐役として活躍した。 |
阿部 | 源次郎 | 定吉 |
武将 | 弓 |
[激励] |
65 | 41 | 62 |
38 | 60 |
88 |
いたくら | | かつしげ |
通常版 |
三河 |
1560 |
(1545-1624)徳川家臣。はじめ僧侶であったが、父と弟の戦死により還俗、家督を継ぐ。駿府や江戸の町奉行を務めた後、京都所司代となり、西国諸大名らの監視を行った。 |
板倉 | 甚平 | 勝重 |
旧仏教 | 荷駄 |
[改修] [外交] [検地] [奉仕] |
78 | 13 | 64 |
51 | 70 |
92 |
いな | | ただつぐ |
通常版 |
三河 |
1565 |
(1550-1610)徳川家臣。主君・家康の近習を務め、民政に参画。関東における検地・知行割・治水は江戸幕府の経済基盤確立に貢献しその地方仕法は「伊奈流」と呼ばれた。 |
伊奈 | 熊蔵 | 忠次 |
一向宗 | 槍 |
[治水] [逃亡] |
74 | 3 | 12 |
20 | 45 |
81 |
どい | | としかつ |
通常版 |
三河 |
1588 |
(1573-1644)徳川家臣。水野信元の子。徳川家康の落胤という説もある。秀忠・家光と将軍二代に仕えて老中・大老などを歴任。江戸幕府の基盤安定に多大な功績を残した。 |
土井 | 甚三郎 | 利勝 |
武将 | 槍 |
[商業] [茶湯] |
74 | 10 | 61 |
54 | 70 |
81 |
ないとう | | きよなり |
通常版 |
三河 |
1570 |
(1555-1608)徳川家臣。主君・家康の小姓を勤める。家康の信頼を受け、秀忠の傅役や関東総奉行などを歴任した。しかし、のちに家康の勘気を受けて籠居の身となった。 |
内藤 | 弥三郎 | 清成 |
武将 | 弓 |
[商業] [治水] |
59 | 33 | 52 |
47 | 65 |
80 |
まきの | | やすなり |
通常版 |
三河 |
1570 |
(1555-1609)徳川家臣。牛久保城主。関ヶ原合戦では徳川秀忠軍に属す。上田城攻めで奮戦するが、軍令違反があり、蟄居する。のちに許されるが、健康を害して隠居した。 |
牧野 | 新二郎 | 康成 |
武将 | 荷駄 |
[開墾] [槍衾] |
33 | 44 | 27 |
31 | 70 |
91 |