『信長の野望 嵐世記』武将総覧

火間虫入道 > 『信長の野望の変遷』

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武将姓 武将名 出身・出自登場年 (誕生年-死亡年)
特技政治采配智謀 野望義理相性 列伝
さたけ ちかなお 通常版 土佐 1581 (1566-1615)長宗我部家臣。土佐上の加江城主。父・義秀が戦死した後、家督を継ぐ。長宗我部元親の娘を娶る。大坂の陣では旧主・盛親に従って戦い、夏の陣で戦死した。
佐竹 親直 武将
[雨撃]  233140 5670 80
さえき これのり 通常版 豊後 1539 (1524-1578)大友家臣。二階崩れの変の際は、主君・宗麟を奉じて変を鎮圧した。一時西園寺家に仕えるが、のち帰参。宗麟の命で日向に進出するが、耳川合戦で戦死した。
佐伯太郎惟教 武将
[回復]  304632 4865 90
さえき これさだ 通常版 豊後 1578 (1568-1618)大友家臣。豊後栂牟礼城主。惟教の孫。島津家久の豊後侵攻の際は居城に籠城して島津軍を撃退し、豊臣秀吉に功を賞された。主家改易後は藤堂高虎に仕えた。
佐伯太郎惟定 武将
[改修]  303744 3670 90
しが ちかもり 通常版 豊後 1526 (1511-1592)大友家臣。豊後岡城主。肥後方分を務めた。耳川合戦の際は消極的行動を取り、大友軍大敗の原因を作った。主君・義統が朝鮮に出陣した際は豊後に残った。
志賀次郎親守 武将切支丹
[開墾] [外交]  483256 6745 80
しが ちかつぐ 通常版 豊後 1581 (1566-1603)大友家臣。豊後岡城主。親度の子。島津家臣・新納忠元率いる3万5千の軍勢をわずか千の兵で撃退し、さらに近隣の諸城を奪回し、豊臣秀吉に功を賞された。
志賀虎左衛門親次 武将切支丹
[逃亡] [守戦] [三段]  87366 855 80
たかはし あきたね 通常版 豊後 1551 (1536-1579)大友家臣。筑前宝満城主を務め、筑前の経略を担当する。のちに毛利家に通じて謀叛を起こし、大友家と毛利家が筑前を舞台に全面対決するきっかけを作った。
高橋 鑑種 武将
[引抜]  403432 8050 90
もんぢゅうじょ むねかげ 通常版 筑後 1554 (1539-1593)筑後の豪族。長岩城主。耳川合戦後も大友家に属して戦い、主君・義統から恩賞を賜る。豊臣秀吉の九州征伐後は小早川家に属す。朝鮮派兵に従軍し戦死した。
問註所 統景 国人衆鉄砲
[捕縛]  332137 4965 90
りゅうぞうじ いえなり 通常版 肥前 1543 (1528-1582)龍造寺家臣。胤久の次男。龍造寺隆信が村中・水ヶ江両家を統一した後は隆信に従う。少弐家討伐戦で功を立てる。のち肥後に赴き、北上する島津軍と戦った。
龍造寺 家就 武将騎馬
[攻城]  364329 4365 60
なりとみ しげやす 通常版 肥前 1575 (1560-1634)龍造寺家臣。各地の合戦で多くの軍功を挙げ、豊臣秀吉にもその武勇を認められた勇将。のちに肥前佐賀藩主・鍋島家に仕え、土木・水利事業などに従事した。
成富新九郎茂安 武将鉄砲
[開墾] [治水] [槍衾]  625831 5380 60
こてだ やすまさ 通常版 肥前 1523 (1508-1557)松浦家臣。主君・興信の死後、主家で家督争いが起きた際、反対派を抑えて隆信を擁立。以後、隆信の重臣として活躍した。のちに子・安経に次いで受洗した。
籠手田 安昌 武将切支丹
[貿易]  175539 2265 20
きわき すけもり 通常版 日向 1541 (1526-1580)伊東家臣。日向鬼ヶ城代。越前守を称した。執事を務める。主家が島津家に追われたとき、その剛勇を恐れた島津家によって探し出され、自害させられた。
木脇 祐守 武将騎馬
[訓練] [収拾] [突撃]  342545 4685 80
しまづ ただよし 通常版 薩摩大隅 1508 (1493-1568)伊作島津家10代当主。嫡男・貴久に島津宗家の家督を継がせる。「いろは歌」を作って家臣の教育にあたるなど、島津家隆盛の基盤を作った島津家中興の祖。
島津菊三郎忠良 武将騎馬
[登用] [奉仕] [守戦] [説得]  949293 9285 30
しまづ たかひさ 通常版 薩摩大隅 1529 (1514-1571)島津家15代当主。忠良の嫡男。父の補佐を受けて所領を広げ、薩摩統一を果たす。新兵器・鉄砲の導入や積極的な外交政策などで島津家飛躍の土台を築いた。
島津又三郎貴久 武将
[開墾] [外交] [攻城]  817280 8460 30
しまづ よしひさ 通常版 薩摩大隅 1548 (1533-1611)島津家16代当主。貴久の嫡男。優秀な弟たちの協力により領土を拡大、九州全土をほぼ手中に収めるが、豊臣秀吉の九州征伐軍に敗れ、薩摩一国を安堵された。
島津又三郎義久 武将鉄砲
[商業] [貿易] [三段] [説得]  888081 9565 30
しまづ よしひろ 通常版 薩摩大隅 1550 (1535-1619)島津家17代当主。貴久の次男。伊東・大友両家を粉砕し、島津家を隆盛に導いた家中随一の猛将。朝鮮派兵の際は明の大軍を破り「鬼石曼子」と恐れられた。
島津又四郎義弘 武将
[訓練] [回復] [三段] [攻城]  658974 9070 30
しまづ ただつね 通常版 薩摩大隅 1593 (1578-1638)島津家18代当主。義弘の三男。父とともに朝鮮派兵に従軍し功を立てた。関ヶ原合戦後、家督を継ぐ。城下町や港湾の整備を行い、薩摩藩の基礎を作った。
島津又八郎忠恒 武将
[検地] [貿易] [三段]  727450 7045 30
しまづ いえひさ 通常版 薩摩大隅 1562 (1547-1587)島津家臣。貴久の四男。永吉島津家の祖となる。沖田畷合戦の際は10倍の兵力の龍造寺軍を破る。豊臣秀吉の九州征伐軍に降り、豊臣秀長との会見後に急死。
島津又七郎家久 武将鉄砲
[三段] [槍衾]  227642 7280 30
しまづ とよひさ 通常版 薩摩大隅 1585 (1570-1600)島津家臣。家久(貴久の四男)の子。朝鮮派兵などに従軍し戦功を立てた。関ヶ原合戦では退却戦の殿軍を務め、本多忠勝や井伊直政らの軍と戦い、戦死した。
島津又七郎豊久 武将
[激励] [雨撃]  255636 3995 30
えい ひさとら 通常版 薩摩大隅 1573 (1558-1587)島津家臣。耳川合戦、肥後水俣城攻撃、沖田畷合戦などに従軍し、各地で功を立てた。主君・義弘は「豊肥戦の勝利はすべて久虎のおかげだ」と語ったという。
頴娃小四郎久虎 武将鉄砲
[訓練] [回復] [槍衾]  156144 4080 30
にいろ ただもと 通常版 薩摩大隅 1541 (1526-1610)島津家臣。薩摩馬越城攻めや肥後経略など、各地の合戦で活躍し、島津家の看経所に名を残した4人のうちの1人。「二才咄格式定目」を著して子弟を戒めた。
新納次郎四郎忠元 武将騎馬
[登用] [攻城] [突撃]  257550 6985 30

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