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重視 | 思考 | 出身 | 出自 |
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武将姓 | 武将名 |
政治 | 統率 | 知略 |
相性 | 義理 | 野心 | 列伝 |
兵科 | 特技 | 策戦1 |
策戦2 | 策戦3 | |
おばた | まさもり |
幕府 | 好戦直情 | 甲斐 | 武将 | (1534-1582)武田家臣。虎盛の子。豊後守と称した。はじめ海津城の城番を務めるが、父の死後、城番を辞して旗本足軽大将衆となり騎馬3騎、足軽10人を率いた。
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小幡 |
昌盛 |
14 | 57 | 18 |
Q |
61 | 31 |
長槍 | 商業 |
威圧 | 誘導 |
- |
おばた | かげのり |
幕府・名声 | 好戦陰湿 | 北信濃 | 武将 | (1572-1663)徳川家臣。甲州流兵学者。昌盛の子。主君・秀忠の小姓となるが、のちに出奔。大坂の陣後、帰参を果たした。甲州流兵学を集大成し、多くの門弟に教授した。
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小幡 |
景憲 |
3 | 68 | 54 |
R |
18 | 85 |
鉄砲 | 登用 |
混乱 | 誘導 |
分断 |
むらかみ | よしきよ |
幕府 | 好戦直情 | 北信濃 | 武将 | (1503-1573)信濃の豪族。葛尾城主。武田信玄軍の攻撃を2度も退け、近隣に勇名を轟かす。しかし、真田幸隆の計略に敗れて居城を失い、越後の長尾景虎の庇護を受けた。
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村上 |
義清 |
43 | 76 | 35 |
I |
49 | 66 |
騎馬 | 登用 |
罵声 | 迎撃 |
放火 |
やまうら | くにきよ |
幕府 | 保守鷹派 | 北信濃 | 武将 | (1546-1603)上杉家臣。義清の子。武田信玄との戦いに敗れた父とともに越後に逃れる。以後は上杉家に仕え、山浦姓を名乗った。徳川家康との和議締結などに貢献した。
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山浦 |
国清 |
53 | 54 | 53 |
I |
58 | 49 |
騎馬 | 農業 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |
やしろ | まさくに |
幕府・名声 | 保守鷹派 | 北信濃 | 武将 | (1525-1587)信濃の豪族。屋代城主。はじめ村上義清に属すが、武田信玄の信濃侵攻軍に降り家臣となる。武田家の滅亡後は、海津城主となった織田家臣・森長可に従った。
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屋代 |
政国 |
55 | 48 | 47 |
H |
51 | 59 |
騎馬 | 商業 |
混乱 | 誘導 |
- |
やしろ | かつなが |
幕府 | 保守鳩派 | 北信濃 | 武将 | (1558-1623)武田家臣。満正の子。伯父・政国の養子となる。主家滅亡後は徳川家康の信濃平定に協力し、以後は徳川家に仕えた。大坂冬・夏の両陣では旗奉行を務めた。
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屋代 |
勝永 |
40 | 46 | 52 |
H |
42 | 35 |
長槍 | 弁舌 |
収拾 | 迎撃 |
- |
あしだ | のぶもり |
幕府 | 保守鷹派 | 北信濃 | 武将 | (1526-1575)武田家臣。三岳城主。下野守と称した。三方ヶ原合戦後、二俣城主となる。長篠合戦で主家が大敗したあと、徳川家康の軍に居城を囲まれ、防戦中に病死した。
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蘆田 |
信守 |
23 | 55 | 40 |
G |
53 | 44 |
長槍 | 改修 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |
よだ | のぶしげ |
幕府・名声 | 好戦直情 | 北信濃 | 武将 | (1548-1583)武田家臣。信守の子。二俣城主を務め、父とともに徳川軍と戦った。主家滅亡後は徳川家に仕え、信濃攻略に参加するが岩尾城攻撃戦で銃弾を浴び、戦死した。
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依田 |
信蕃 |
19 | 54 | 54 |
G |
51 | 68 |
騎馬 | 威圧 |
威圧 | 破壊 |
突入 |
おがさわら | ながむね |
幕府 | 好戦陰湿 | 南信濃 | 武将 | (1492-1542)信濃守護。支族・伊那小笠原家を屈伏させ、分裂状態にあった小笠原家の統一に成功した。また、隣国の諏訪家とは講和を結び、領内の治政の安定化に努めた。
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小笠原 |
長棟 |
79 | 61 | 77 |
H |
64 | 60 |
騎馬 | 農業 |
虚報 | 収拾 |
迎撃 |
おがさわら | ながとき |
幕府 | 好戦直情 | 南信濃 | 武将 | (1519-1583)信濃守護。長棟の長男。武田信玄に信濃を追われ、越後・摂津・会津など諸国を流浪。旧領を回復した子・貞慶の帰国要請に応じる準備中に、近臣に殺された。
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小笠原 |
長時 |
28 | 71 | 18 |
H |
39 | 74 |
騎馬 | 威圧 |
罵声 | 迎撃 |
- |
おがさわら | さだよし |
幕府・名声 | 保守鷹派 | 南信濃 | 武将 | (1546-1595)徳川家臣。長時の嫡男。各地を流浪後、徳川家康の後援を得て旧領を回復し、以後は徳川家に仕える。家康の孫娘を子・秀政に迎えるなど、関係強化に努めた。
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小笠原 |
貞慶 |
59 | 55 | 38 |
G |
70 | 55 |
騎馬 | 改修 |
収拾 | 誘導 |
- |
おがさわら | ひでまさ |
幕府 | 保守鳩派 | 摂津 | 武将 | (1569-1615)徳川家臣。貞慶の嫡男。石川康長の改易後、旧領の信濃松本6万石を領す。大坂夏の陣で戦死した。主君・家康に「信濃は…」と言い残して絶命したという。
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小笠原 |
秀政 |
56 | 45 | 28 |
G |
58 | 39 |
騎馬 | 哀願 |
鼓舞 | 迎撃 |
- |
おがさわら | さだたね |
幕府 | 保守鷹派 | 南信濃 | 武将 | (1523-1587)小笠原家臣。長棟の子。諸国を流浪したあと、上杉景勝の後援を得て深志城を回復する。しかし、のちに甥・貞慶が信濃に入国すると、貞慶に深志城を譲った。
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小笠原 |
貞種 |
29 | 20 | 17 |
M |
26 | 70 |
長槍 | 弁舌 |
混乱 | - |
- |
ほしな | まさとし |
幕府・名声 | 好戦直情 | 南信濃 | 国人 | (1509-1593)武田家臣。高遠城主。信濃先方衆として各地の合戦に従軍し、活躍した。「槍弾正」の異名をとり「甲陽軍鑑」に戦国三弾正の1人として名を挙げられている。
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保科 |
正俊 |
19 | 67 | 26 |
L |
42 | 46 |
長槍 | 農業 |
威圧 | 誘導 |
- |
ほしな | まさなお |
幕府 | 保守鳩派 | 南信濃 | 国人 | (1542-1601)武田家臣。正俊の子。主家の滅亡後は一時北条家に属すが、敵対する小笠原貞慶らが豊臣家に属したため、徳川家に仕える。第一次上田合戦などに従軍した。
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保科 |
正直 |
41 | 52 | 36 |
L |
48 | 54 |
鉄砲 | 改修 |
鼓舞 | 誘導 |
- |
きそ | よしあり |
幕府 | 保守鳩派 | 南信濃 | 武将 | (1493-1558)信濃木曾谷の豪族。温和な人柄で、父・義元の頃から対立状態にあった飛騨の三木家との関係修復に尽力、領内の治政安定に努めた。「風流太守」と呼ばれた。
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木曾 |
義在 |
75 | 42 | 70 |
O |
76 | 48 |
騎馬 | 弁舌 |
離反 | 修復 |
誘導 |
きそ | よしやす |
幕府・名声 | 保守鷹派 | 南信濃 | 武将 | (1514-1579)信濃木曾谷の豪族。義在の嫡男。村上義清・小笠原長時・諏訪頼重とともに「信濃の四大将」と呼ばれた。武田信玄の攻撃に頑強に抵抗したが敗れ、降伏した。
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木曾 |
義康 |
57 | 37 | 48 |
O |
63 | 45 |
足軽 | 登用 |
治療 | 修復 |
- |
きそ | よしまさ |
幕府 | 保守鷹派 | 南信濃 | 武将 | (1540-1595)信濃木曾谷の豪族。義康の嫡男。武田信玄の娘を娶る。のち織田信長に通じ、武田家滅亡の原因を作った。本能寺の変後は徳川家康に属し、下総に転封された。
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木曾 |
義昌 |
47 | 57 | 61 |
O |
33 | 58 |
騎馬 | 哀願 |
威圧 | 修復 |
誘導 |
きそ | よしとし |
幕府 | 好戦直情 | 南信濃 | 武将 | (1577-1640)徳川家臣。義昌の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。粗暴の振る舞いが多く、叔父・義豊を殺害した罪により改易された。その後は京都で剃髪し、各国を流浪した。
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木曾 |
義利 |
18 | 6 | 5 |
S |
25 | 37 |
足軽 | 威圧 |
混乱 | - |
- |
ながお | ためかげ |
幕府 | 好戦直情 | 南越後 | 武将 | (1471-1536)越後守護代。越後守護や関東管領を討ち国政を掌握。しかし、のちに越後守護・上杉定実と対立、上杉方国人の叛乱を招いた。出陣は百回を超えるという猛将。
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長尾 |
為景 |
45 | 88 | 33 |
H |
30 | 96 |
騎馬 | 威圧 |
罵声 | 破壊 |
突入 |