武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
まつだいら | | きよやす |
通常版 |
三河 |
1523 |
(1511-1535)三河の戦国大名。13歳で家督を継ぐ。積極的な軍事行動で三河を平定、尾張の織田信秀と抗争するが、いわゆる「守山崩れ」で家臣・阿部弥七郎に殺された。 |
松平 | 次郎三郎 | 清康 |
武将 | 騎馬 |
[改修] [訓練] [激励] [突撃] |
74 | 84 | 81 |
87 | 65 |
88 |
まつだいら | | ひろただ |
通常版 |
三河 |
1535 |
(1526-1549)三河の戦国大名。清康の子。一時は居城の岡崎城を追われるがのちに復帰。今川義元の庇護を受けて領国経営を進めるが反松平派の刺客・岩松八弥に殺された。 |
松平 | 次郎三郎 | 広忠 |
武将 | 弓 |
[開墾] [連射] |
40 | 35 | 19 |
56 | 60 |
88 |
まつだいら | | もとやす |
通常版 |
三河 |
1549 |
(1542-1616)江戸幕府の創始者。広忠の子。桶狭間の合戦後に自立。織田家との同盟、豊臣家への従属を経て勢力を拡大する。関ヶ原合戦で勝利を収め征夷大将軍となった。 |
松平 | 次郎三郎 | 元康 |
武将 | 槍 |
[貿易] [奉仕] [影] [槍衾] |
89 | 87 | 85 |
99 | 95 |
90 |
まつだいら | | のぶやす |
通常版 |
三河 |
1567 |
(1559-1579)徳川家康の長男。織田信長の娘・五徳を娶る。その人となりは剛勇英邁で、将来を嘱望されるが、のちに信長に武田家への内通を疑われ、父の命で自害した。 |
松平 | 三郎 | 信康 |
武将 | 槍 |
[開墾] [収拾] [槍衾] |
50 | 75 | 56 |
62 | 80 |
90 |
まつだいら | | ひでやす |
通常版 |
三河 |
1589 |
(1574-1607)徳川家康の次男。結城家の家督を継ぐ。関ヶ原合戦の際は関東に残って上杉景勝に備え、戦後、越前福井75万石を領した。激しい気性の持ち主だったという。 |
松平 | 於義丸 | 秀康 |
武将 | 騎馬 |
[回復] [激励] [突撃] |
39 | 69 | 10 |
68 | 90 |
94 |
まつだいら | | ひでただ |
通常版 |
三河 |
1594 |
(1579-1632)家康の三男。関ヶ原合戦の際、中山道からの進軍を真田昌幸に阻まれ、父の不興を買う。しかし、凡庸篤実な人柄を父に見込まれ、江戸幕府2代将軍となった。 |
松平 | 竹千代 | 秀忠 |
武将 | 槍 |
[検地] [茶湯] |
76 | 28 | 79 |
85 | 60 |
78 |
まつだいら | | ただよし |
通常版 |
三河 |
1595 |
(1580-1607)徳川家康の四男。関ヶ原合戦では舅・井伊直政とともに戦端を開く。負傷しながらも島津義弘軍を討つなど戦功を上げ、戦後、尾張清洲62万石を領した。 |
松平 | 福松 | 忠吉 |
武将 | 鉄砲 |
[訓練] [三段] [雨撃] |
54 | 53 | 26 |
42 | 75 |
85 |
まつだいら | | ただてる |
通常版 |
三河 |
1607 |
(1592-1683)徳川家康の六男。容貌の醜さから父に疎まれて育つ。成人後は越後高田75万石を領すが、大坂夏の陣への遅参が豊臣家への内通疑惑を招き、戦後改易された。 |
松平 | 辰千代 | 忠輝 |
武将 | 槍 |
[治水] [激励] [槍衾] |
14 | 69 | 62 |
77 | 90 |
94 |
さかい | | ただつぐ |
通常版 |
三河 |
1542 |
(1527-1596)徳川四天王の筆頭。主君・家康の養育係を務めた。家康の成人後は東三河衆を率いて各地を転戦、数々の軍功をあげる。その器量は豊臣秀吉にも称賛された。 |
酒井 | 小五郎 | 忠次 |
武将 | 弓 |
[開墾] [守戦] [連射] |
65 | 75 | 57 |
66 | 85 |
88 |
さかい | | いえつぐ |
通常版 |
三河 |
1579 |
(1564-1618)徳川家臣。忠次の嫡男。主君・家康の偏諱を受ける。家康の関東入国の際に臼井城主となった。大坂夏の陣で活躍し、その功により越後高田10万石を領した。 |
酒井 | 小五郎 | 家次 |
武将 | 槍 |
[商業] [三段] |
46 | 44 | 29 |
36 | 70 |
88 |
さかい | | ただよ |
通常版 |
三河 |
1587 |
(1572-1636)徳川家臣。大坂冬・夏の陣では全軍の参謀役を務めた。のちに土井利勝・青山忠俊とともに3代将軍家光の教育係に就任し、幕府の中枢を担う。老中も務めた。 |
酒井 | 与四郎 | 忠世 |
武将 | 鉄砲 |
[登用] [外交] |
71 | 33 | 65 |
55 | 65 |
92 |
さかい | | ただかつ |
通常版 |
三河 |
1602 |
(1587-1662)徳川家臣。関ヶ原合戦で初陣。家康・秀忠・家光・家綱と将軍四代に仕える。老中・大老を務めて内政・外交全般に活躍した。家綱に「名臣第一」と評された。 |
酒井 | 与七郎 | 忠勝 |
武将 | 槍 |
[開墾] [商業] [治水] |
75 | 21 | 58 |
43 | 70 |
82 |
ほんだ | | ただかつ |
通常版 |
三河 |
1563 |
(1548-1610)徳川四天王の1人。「家康に過ぎたるもの」と謳われた家中随一の猛将。名槍・「蜻蛉切」を手に五十七回の合戦に参陣し、かすり傷一つ負わなかったという。 |
本多 | 平八郎 | 忠勝 |
武将 | 騎馬 |
[改修] [収拾] [鉄壁] [突撃] |
56 | 83 | 63 |
70 | 95 |
90 |
ほんだ | | ただまさ |
通常版 |
三河 |
1590 |
(1575-1631)徳川家臣。忠勝の嫡男。小田原征伐、関ヶ原合戦、大坂の陣などに従軍し、播磨姫路15万石を領した。嫡男・忠刻は豊臣秀頼と死別した千姫と結婚している。 |
本多 | 平八郎 | 忠政 |
武将 | 鉄砲 |
[商業] [収拾] |
48 | 48 | 46 |
19 | 75 |
91 |
ほんだ | | ただとも |
通常版 |
三河 |
1597 |
(1582-1615)徳川家臣。忠勝の次男。関ヶ原合戦に従軍し、戦後、上総大多喜5万石を領す。大坂夏の陣では天王寺口の先鋒を務め、毛利勝永軍に正面から突入、戦死した。 |
本多 | | 忠朝 |
武将 | 騎馬 |
[激励] [突撃] |
23 | 61 | 29 |
52 | 85 |
92 |
ほんだ | | しげつぐ |
通常版 |
三河 |
1544 |
(1529-1596)徳川家臣。岡崎奉行を務め、「鬼作左」の異名をとる。豊臣秀吉の母・大政所が徳川家の人質となった際、冷遇したため秀吉の怒りを買い、閉居処分となった。 |
本多 | 作左衛門 | 重次 |
武将 | 槍 |
[開墾] [捕縛] |
59 | 45 | 20 |
47 | 85 |
89 |
ほんだ | | まさのぶ |
通常版 |
三河 |
1553 |
(1538-1616)徳川家臣。三河一向一揆に身を投じて主家を離反、諸国を放浪したのちに帰参。行政と謀略に優れた手腕を発揮した。主君・家康には「友」と呼ばれたという。 |
本多 | 弥八郎 | 正信 |
一向宗 | 荷駄 |
[引抜] [外交] [混乱] [説得] |
83 | 18 | 86 |
65 | 55 |
90 |
ほんだ | | まさずみ |
通常版 |
三河 |
1580 |
(1565-1637)徳川家臣。正信の嫡男。駿府城付の年寄を務める。金地院崇伝とともに内政・外交に活躍、下野宇都宮15万石を領すがのちに秀忠の不興を買い、改易された。 |
本多 | 弥八郎 | 正純 |
一向宗 | 鉄砲 |
[商業] [外交] [説得] |
80 | 9 | 79 |
83 | 50 |
85 |
さかきばら | | やすまさ |
通常版 |
三河 |
1563 |
(1548-1606)徳川四天王の1人。「無」の旗を掲げて戦場を疾駆し、各地で抜群の戦功を立てた。晩年、老中に推されるが「老臣権を争うは亡国の兆し」とこれを辞退した。 |
榊原 | 小平太 | 康政 |
武将 | 騎馬 |
[訓練] [収拾] [槍衾] |
53 | 78 | 51 |
53 | 90 |
90 |
いしかわ | | かずまさ |
通常版 |
三河 |
1548 |
(1533-1592)徳川家臣。家老を務め、西三河衆を率いて活躍した。小牧長久手合戦の後、豊臣家へ出奔。そのため、徳川家は三河以来の軍制を武田流に改めることになった。 |
石川 | 与七郎 | 数正 |
武将 | 荷駄 |
[商業] [外交] [逃亡] |
74 | 48 | 70 |
58 | 50 |
96 |