武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
きむら | | さだみつ |
通常版 |
近江 |
1574 |
(1559-1595)豊臣家臣。常陸介を称す。賤ヶ岳合戦などに従軍し、越前府中10万石を領す。出羽国の検地奉行を務めた。のちに豊臣秀次事件に連座し、自害させられた。 |
木村 | | 定光 |
武将 | 弓 |
[検地] [茶湯] |
67 | 49 | 64 |
61 | 75 |
20 |
きむら | | しげなり |
通常版 |
近江 |
1595 |
(1593-1615)豊臣家臣。定光の子という。主君・秀頼の乳兄弟で、小姓を務めた。徳川家との和睦の際は豊臣家の使者を務めた。大坂夏の陣で井伊直孝軍と戦い、戦死した。 |
木村 | | 重成 |
武将 | 槍 |
[訓練] [外交] [捕縛] |
17 | 52 | 28 |
6 | 95 |
20 |
てらざわ | | ひろたか |
通常版 |
近江 |
1578 |
(1563-1633)豊臣家臣。朝鮮派兵の際、肥前名護屋城の普請を担当。主君・秀吉の側近として兵力輸送・補給・船舶の運航統制などを行った。関ヶ原合戦では東軍に属した。 |
寺沢 | | 広高 |
武将 | 槍 |
[改修] [貿易] |
54 | 41 | 44 |
24 | 55 |
0 |
なつか | | まさいえ |
通常版 |
近江 |
1572 |
(1557-1600)丹羽家臣。主家没落後は豊臣家に仕え、五奉行の1人となる。算術に通じ、主家の賦課収納の財政処理を担当した。関ヶ原合戦では西軍に属し、戦後自害した。 |
長束 | 新三郎 | 正家 |
武将 | 荷駄 |
[商業] [治水] |
83 | 10 | 6 |
41 | 50 |
23 |
わきざか | | やすはる |
通常版 |
近江 |
1569 |
(1554-1626)豊臣家臣。賤ヶ岳七本槍の1人。主君・秀吉の中国征伐の際に「丹波の赤鬼」赤井直正を討ち取る功を立てた。関ヶ原合戦では東軍に寝返り所領を安堵された。 |
脇坂 | 甚内 | 安治 |
武将 | 鉄砲 |
[改修] [三段] |
22 | 44 | 31 |
52 | 50 |
6 |
ろっかく | | さだより |
通常版 |
近江 |
1510 |
(1495-1552)近江の戦国大名。近江に逃れた将軍・足利義晴を支援し、管領に準ずる待遇を与えられた。一国一城令の先駆をなす「城割り」を初めて行った人物として著名。 |
六角 | 四郎 | 定頼 |
武将 | 騎馬 |
[商業] [改修] [守戦] [攻城] |
87 | 80 | 66 |
93 | 70 |
34 |
ろっかく | | よしかた |
通常版 |
近江 |
1536 |
(1521-1598)近江の戦国大名。定頼の子。江南に勢力を伸ばす。三好家に京を追われた足利将軍家を保護し、仲裁に奔走した。のち織田信長の上洛軍に敗れ、所領を失った。 |
六角 | 四郎 | 義賢 |
武将 | 弓 |
[改修] [連射] |
35 | 52 | 36 |
74 | 45 |
33 |
ろっかく | | よしはる |
通常版 |
近江 |
1560 |
(1545-1612)近江の戦国大名。義賢の子。筆頭家老・後藤賢豊を謀殺し、家臣の信頼を失う。織田信長の上洛軍に敗れ、諸国を流浪した。晩年は豊臣秀頼の弓師範を務めた。 |
六角 | 四郎 | 義治 |
武将 | 弓 |
[連射] |
31 | 32 | 4 |
66 | 50 |
33 |
がもう | | さだひで |
通常版 |
近江 |
1523 |
(1508-1579)六角家臣。六角軍の先鋒として各地に出陣し活躍、勇名を馳せた。主君・義治が後藤賢豊を謀殺した「観音寺騒動」の際は、義治と家臣団間の調停役を務めた。 |
蒲生 | 藤十郎 | 定秀 |
武将 | 騎馬 |
[開墾] [収拾] [説得] |
58 | 53 | 51 |
71 | 65 |
7 |
がもう | | かたひで |
通常版 |
近江 |
1549 |
(1534-1584)六角家臣。定秀の子。織田信長上洛の際は信長の三男・信孝が妹婿・神戸具盛の養子となった関係から織田家に属す。本能寺の変の際は信長の妻子を保護した。 |
蒲生 | 藤太郎 | 賢秀 |
武将 | 弓 |
[捕縛] [連射] |
49 | 46 | 53 |
51 | 85 |
7 |
がもう | | うじさと |
通常版 |
近江 |
1571 |
(1556-1595)織田家臣。賢秀の子。主君・信長の娘を娶る。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え活躍、陸奥会津92万石を領した。文武に秀でたその器量を秀吉は恐れたという。 |
蒲生 | 忠三郎 | 氏郷 |
武将切支丹 | 騎馬 |
[改修] [回復] [茶湯] [突撃] |
81 | 77 | 79 |
80 | 85 |
4 |
がもう | | ひでゆき |
通常版 |
近江 |
1595 |
(1583-1612)豊臣家臣。氏郷の嫡男。陸奥会津92万石を継ぐが、家中内紛により下野宇都宮18万石に減封された。関ヶ原合戦で東軍に属し、陸奥会津60万石に戻った。 |
蒲生 | 藤三郎 | 秀行 |
武将 | 槍 |
[収拾] |
44 | 44 | 16 |
40 | 65 |
4 |
ごとう | | かたとよ |
通常版 |
近江 |
1531 |
(1516-1563)六角家臣。進藤家とともに「六角家の両藤」と称された。主君・義賢親子上洛の際は警護役を務めた。いわゆる「観音寺騒動」において主君・義治に殺された。 |
後藤 | 重左衛門 | 賢豊 |
武将 | 弓 |
[登用] [外交] [連射] |
67 | 50 | 55 |
67 | 75 |
29 |
ごとう | | たかはる |
通常版 |
近江 |
1555 |
(1540-1589)六角家臣。賢豊の次男。「観音寺騒動」で父が死亡したのち家督を継ぐ。進藤家と並ぶ「両藤」として義治の重臣となるが、織田信長の上洛軍に敗れ降伏した。 |
後藤 | 喜三郎 | 高治 |
武将 | 騎馬 |
[開墾] |
28 | 10 | 35 |
39 | 50 |
29 |
しんどう | | さだはる |
通常版 |
近江 |
1512 |
(1497-1551)六角家臣。木浜城主。後藤賢豊とともに「両藤」と呼ばれた。幕府や細川家、本願寺との折衝や延暦寺と法華宗の紛争の調停など、おもに外交面で活躍した。 |
進藤 | 新介 | 貞治 |
武将 | 弓 |
[開墾] [登用] [外交] |
62 | 44 | 54 |
62 | 60 |
26 |
みくも | | しげもち |
通常版 |
近江 |
1555 |
(1540-1603)六角家臣。兄・賢持の死後、家督を継いだ。「六角氏式目」には父・定持とともに署名している。主家滅亡後は浪人生活を経て、織田信雄・蒲生氏郷に仕えた。 |
三雲 | 新左衛門 | 成持 |
武将 | 槍 |
[守戦] |
40 | 35 | 42 |
34 | 90 |
29 |
よしだ | | しげまさ |
通常版 |
近江 |
1537 |
(1522-1581)六角家臣。吉田流弓術の祖・重賢の子。主君・義賢から弓術の伝授を求められるが拒否して出奔、一時朝倉家に仕える。数年後に帰参し、義賢に弓術を授けた。 |
吉田 | 助左衛門 | 重政 |
武将 | 弓 |
[連射] |
7 | 41 | 39 |
44 | 45 |
29 |
おがわ | | すけただ |
通常版 |
近江 |
1564 |
(1549-1601)近江の豪族。明智光秀に属す。光秀の死後は柴田勝豊の家老を経て豊臣秀吉に仕え、伊予府中7万石を領した。関ヶ原合戦で東軍に寝返るが、戦後改易された。 |
小川 | 孫一郎 | 祐忠 |
国人衆 | 槍 |
[攻城] |
20 | 29 | 48 |
65 | 30 |
27 |
けや | | たけひさ |
通常版 |
近江 |
1569 |
(1554-1628)黒田家臣。近江の出身。柴田勝家など数家を経て、黒田家に仕官。物見にすぐれ関ヶ原合戦では徳川家康に「敵は寡勢」と報告し、饅頭を与えられたという。 |
毛屋 | | 武久 |
武将 | 槍 |
[捕縛] |
16 | 47 | 40 |
19 | 70 |
9 |
たきがわ | | かずます |
通常版 |
近江 |
1540 |
(1525-1586)織田家臣。各地の合戦で活躍し「進むも退くも滝川」と称された。甲斐平定後、関東管領となる。本能寺の変後、北条軍と戦って惨敗し、以後は勢威を失った。 |
滝川 | 彦右衛門 | 一益 |
忍者 | 鉄砲 |
[三段] [雨撃] [混乱] |
49 | 79 | 78 |
47 | 75 |
0 |