武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
すわ | | よりただ |
通常版 |
南信濃 |
1545 |
(1536-1606)武田家臣。満隣の子。主家統治下で諏訪大社大祝に就任した。主家滅亡後は諏訪を平定し自立。一時北条家に属すが、のちに徳川家に仕え、本領を安堵された。 |
諏訪 | 小太郎 | 頼忠 |
旧仏教 | 騎馬 |
[改修] [外交] |
47 | 33 | 37 |
8 | 80 |
13 |
たかとお | | よりつぐ |
通常版 |
南信濃 |
1528 |
(1513-1552)信濃の豪族。高遠家は諏訪信員を始祖とする諏訪家の庶流。武田信玄とともに諏訪宗家を滅ぼすが、諏訪領に横暴をふるって信玄と対立、攻撃を受け滅亡した。 |
高遠 | | 頼継 |
旧仏教 | 槍 |
[混乱] |
15 | 10 | 42 |
51 | 55 |
35 |
ほしな | | まさとし |
通常版 |
南信濃 |
1524 |
(1509-1593)武田家臣。信濃高遠城主。信濃先方衆として各地の合戦に従軍した。「槍弾正」の異名をとり、「甲陽軍鑑」には戦国三弾正の1人として名を挙げられている。 |
保科 | 甚四郎 | 正俊 |
国人衆 | 騎馬 |
[槍衾] |
23 | 49 | 36 |
53 | 40 |
73 |
きそ | | よしあり |
通常版 |
南信濃 |
1504 |
(1493-1558)信濃木曾谷の豪族。温和な人柄で、父・義元の頃から対立状態にあった飛騨の三木家との関係修復に尽力、領内の治政安定に努めた。「風流太守」と呼ばれた。 |
木曾 | 源太郎 | 義在 |
武将 | 弓 |
[開墾] [引抜] [収拾] [槍衾] |
79 | 64 | 76 |
49 | 80 |
83 |
きそ | | よしやす |
通常版 |
南信濃 |
1529 |
(1514-1579)信濃木曾谷の豪族。義在の嫡男。村上義清・小笠原長時・諏訪頼重とともに「信濃の四大将」と称された。武田信玄の攻撃に頑強に抵抗したが敗れ、降伏した。 |
木曾 | 源太郎 | 義康 |
武将 | 荷駄 |
[開墾] [登用] |
46 | 38 | 33 |
46 | 60 |
80 |
きそ | | よしまさ |
通常版 |
南信濃 |
1555 |
(1540-1595)信濃木曾谷の豪族。義康の嫡男。武田信玄の娘を娶る。のち織田信長に通じ、武田家滅亡の原因を作った。本能寺の変後は徳川家康に属し、下総に転封された。 |
木曾 | 宗太郎 | 義昌 |
武将 | 騎馬 |
[商業] [外交] |
49 | 40 | 52 |
38 | 30 |
81 |
きそ | | よしとし |
通常版 |
南信濃 |
1592 |
(1577-1640)徳川家臣。義昌の嫡男。父の死後、家督を継ぐ。粗暴の振る舞いが多く、叔父・義豊を殺害した罪により改易された。その後は京都で剃髪、各国を流浪した。 |
木曾 | 仙三郎 | 義利 |
武将 | 騎馬 |
[混乱] |
12 | 4 | 3 |
19 | 30 |
81 |
やまむら | | よしとし |
通常版 |
南信濃 |
1529 |
(1514-1599)木曾家臣。三河守を称した。武田家に属す主家の家臣団をまとめる役割を担い、また、木曾領の代官的存在として、武田家から直接支配を受けていた。 |
山村 | | 良利 |
国人衆 | 弓 |
[連射] |
27 | 46 | 56 |
60 | 75 |
87 |
やまむら | | よしとき |
通常版 |
南信濃 |
1562 |
(1547-1602)木曾家臣。良利の子。主家転封後も木曾に残る。関ヶ原合戦の際は東軍に属し、西軍に捕まるが、のち解放。戦後、徳川家康から木曾福島の関所を預かった。 |
山村 | | 良候 |
国人衆 | 弓 |
[引抜] |
45 | 24 | 46 |
11 | 65 |
88 |
やまむら | | よしかつ |
通常版 |
南信濃 |
1578 |
(1563-1634)木曾家臣。良候の子。関ヶ原合戦では東軍に属し、千村良重とともに木曾を平定し、また尾張犬山城を攻略した。のち尾張徳川家に仕え、大坂の陣に参加した。 |
山村 | | 良勝 |
国人衆 | 槍 |
[検地] |
62 | 36 | 52 |
23 | 80 |
87 |
ながお | | ためかげ |
通常版 |
南越後 |
1486 |
(1471-1536)越後守護代。越後守護・上杉房能、関東管領・上杉顕定を討ち、越後の国政を掌握する。しかし、のちに房能の養嗣子・定実と対立し、国人の叛乱が相次いだ。 |
長尾 | 六郎 | 為景 |
武将 | 騎馬 |
[訓練] [激励] [突撃] |
65 | 103 | 49 |
97 | 65 |
16 |
ながお | | はるかげ |
通常版 |
南越後 |
1524 |
(1509-1553)越後の戦国大名。為景の嫡男。父の死後に家督を継ぐ。しかし病弱で統率力に欠けたため諸将から反発を受け、上杉定実の調停のもと弟・景虎に家督を譲った。 |
長尾 | 弥六郎 | 晴景 |
武将 | 騎馬 |
[槍衾] |
42 | 29 | 18 |
24 | 45 |
16 |
ながお | | かげとら |
通常版 |
南越後 |
1545 |
(1530-1578)越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。 |
長尾 | 平三 | 景虎 |
旧仏教 | 騎馬 |
[訓練] [回復] [軍神] [突撃] |
57 | 125 | 57 |
74 | 100 |
15 |
ながお | | ふさなが |
通常版 |
南越後 |
1518 |
(1503-1552)長尾家臣。魚沼郡上田荘を領した。上条定憲の乱に呼応し主家に敵対する。しかし定憲の戦死、越後守護・上杉定実の死去により劣勢となり、主家と和睦した。 |
長尾 | | 房長 |
武将 | 荷駄 |
[引抜] [守戦] |
65 | 60 | 68 |
60 | 60 |
19 |
ながお | | まさかげ |
通常版 |
南越後 |
1541 |
(1526-1564)長尾家臣。房長の子。父とともに主家に敵対するが和睦し、主君・景虎の姉を娶る。その後は景虎を補佐して活躍するが宇佐美定満と舟遊び中に溺死した。 |
長尾 | 六郎 | 政景 |
武将 | 騎馬 |
[登用] [守戦] [説得] |
60 | 66 | 55 |
65 | 70 |
19 |
ながお | | あきかげ |
通常版 |
南越後 |
1564 |
(1555-1623)出羽米沢藩主。長尾政景の子。上杉謙信の養子となる。謙信の死後、御館の乱に勝利して家督を継いだ。関ヶ原合戦では西軍に属し、最上・伊達軍と戦った。 |
長尾 | 喜平次 | 顕景 |
武将 | 騎馬 |
[開墾] [訓練] [軍神] [突撃] |
77 | 78 | 62 |
66 | 100 |
10 |
ながお | | かげのぶ |
通常版 |
南越後 |
1542 |
(1527-1578)上杉家臣。主君・謙信が関東管領に就任した際、謙信とともに上杉姓に改めた。一門衆の重鎮として各地を転戦する。御館の乱で上杉景虎方に属し、戦死した。 |
長尾 | 越ノ十郎 | 景信 |
武将 | 弓 |
[攻城] |
48 | 16 | 37 |
37 | 50 |
2 |
うえすぎ | | さだざね |
通常版 |
北越後 |
1503 |
(1488-1550)越後守護。越後守護代・長尾為景に擁立され、養父・房能を自害させ、越後守護となる。のちに為景と対立、宇佐美房忠とともに為景排除を企むが、失敗した。 |
上杉 | | 定実 |
武将 | 槍 |
[茶湯] |
67 | 32 | 23 |
58 | 50 |
87 |
じょうじょう | | さだのり |
通常版 |
南越後 |
1522 |
(1507-1536)越後守護・上杉定実の甥。旧上杉家勢力を糾合し挙兵。三分一原合戦において長尾軍と戦うが、数千人の兵が討ち捕らえられるという大敗北を喫し、戦死した。 |
上条 | 七郎 | 定憲 |
武将 | 弓 |
[引抜] [攻城] |
33 | 29 | 66 |
89 | 35 |
87 |
おおくま | | ともひで |
通常版 |
南越後 |
1532 |
(1517-1582)長尾家臣。越後箕冠城主。主君・景虎の側近として政務に参画。景虎の出家騒動に乗じて謀叛を起こすが敗れる。以後は武田家に仕え、甲斐天目山で戦死した。 |
大熊 | | 朝秀 |
武将 | 槍 |
[商業] [逃亡] |
70 | 5 | 57 |
68 | 50 |
88 |