武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
かとうだ | | しげきよ |
通常版 |
磐城 |
1567 |
(1552-1601)白河結城家臣。河東田家は白河結城家の一族で、河東田郷に住んで姓としたという。伊達家との交渉に当たった。主家滅亡後は伊達家に仕え、3百石を賜った。 |
河東田 | | 重清 |
武将 | 弓 |
[激励] |
44 | 21 | 38 |
33 | 75 |
15 |
さたけ | | よしかた |
通常版 |
常陸 |
1529 |
(1514-1566)佐竹一門。東家・政義の嫡男。若年の宗家・義昭に仕え、北家・義廉や南家・義里らと交代で佐竹家の家政を執行した。1566年には那須家と戦い、敗れた。 |
佐竹 | 源六郎 | 義堅 |
武将 | 弓 |
[激励] |
48 | 37 | 20 |
33 | 60 |
15 |
さたけ | | よしひさ |
通常版 |
常陸 |
1556 |
(1541-1601)佐竹一門。東家・義堅の次男。南陸奥方面支配の総指揮を執り、内政、軍事、外交などに幅広い活躍を見せた。石田三成を通じて豊臣秀吉と親交を結んだ。 |
佐竹 | 源六郎 | 義久 |
武将 | 槍 |
[外交] [検地] |
52 | 28 | 52 |
46 | 75 |
15 |
うつのみや | | ともかつ |
通常版 |
下野 |
1584 |
(1569-1628)宇都宮広綱の次男。結城晴朝の養子となるが、のちに徳川家康の次男・秀康が結城家に入嗣したため、宇都宮家に戻る。以後は反徳川、反結城の姿勢を貫いた。 |
宇都宮 | 七郎 | 朝勝 |
武将 | 槍 |
[回復] |
39 | 44 | 36 |
61 | 70 |
15 |
うつのみや | | たかたけ |
通常版 |
下野 |
1587 |
(1572-1612)宇都宮広綱の三男。宇都宮家宿老の家柄である芳賀家を継ぎ、兄・国綱の片腕として活躍した。主家改易後は、伊勢内宮にたびたび主家再興の願文を奉納した。 |
宇都宮 | 十郎 | 高武 |
武将 | 槍 |
[捕縛] [雨撃] |
44 | 41 | 47 |
27 | 85 |
15 |
さの | | ふさつな |
通常版 |
下野 |
1573 |
(1558-1601)下野唐沢山城主。佐野家の家督を、北条氏忠に奪われたため、去って秀吉に仕えた。「天徳寺了伯」と呼ばれ、剣術の達人であったと伝えられる。 |
佐野 | | 房綱 |
武将 | 弓 |
[剣豪] |
18 | 32 | 15 |
57 | 75 |
15 |
ながお | | かげとら |
通常版 |
南越後 |
1545 |
(1530-1578)越後の戦国大名。為景の次男。上杉憲政から関東管領職を譲られ、上杉姓を名乗る。「毘」の軍旗を翻して疾駆する姿は軍神と恐れられた。通称「越後の龍」。 |
長尾 | 平三 | 景虎 |
旧仏教 | 騎馬 |
[訓練] [回復] [軍神] [突撃] |
57 | 125 | 57 |
74 | 100 |
15 |
おにこじま | | やたろう |
通常版 |
南越後 |
1537 |
(1522-1582)上杉家臣。本名は小島貞興。少年時代から側近として主君・謙信に仕えた。剛力無双の豪傑で、「鬼小島」と呼ばれて恐れられ、数々の伝説を残している。 |
鬼小島 | 貞興 | 弥太郎 |
武将 | 弓 |
[連射] [槍衾] |
2 | 76 | 2 |
25 | 90 |
15 |
さいとう | | とものぶ |
通常版 |
南越後 |
1542 |
(1527-1591)上杉家臣。川中島合戦や下野佐野城攻めなどで活躍し、「越後の鐘馗」の異名をとった。謙信の死後は景勝に属す。私欲なく、行政にも優れた手腕を発揮した。 |
斎藤 | | 朝信 |
武将 | 騎馬 |
[商業] [収拾] [突撃] |
57 | 71 | 58 |
40 | 90 |
15 |
かわだ | | ながちか |
通常版 |
近江 |
1555 |
(1540-1581)上杉家臣。近江の出身。主君・謙信上洛の際に召し出され、家臣となる。主家の北陸攻略に大きく貢献した。のちに越中松倉城主となり、織田信長軍と戦った。 |
河田 | | 長親 |
武将 | 鉄砲 |
[商業] [外交] [守戦] |
57 | 50 | 68 |
38 | 65 |
15 |
しま | | きよおき |
通常版 |
大和 |
1560 |
(1545-1600)筒井家臣。のち浪人し、石田三成に高禄で召し抱えられる。「三成に過ぎたるもの」と謳われた名将。関ヶ原合戦で縦横無尽の活躍をし、壮絶な戦死を遂げる。 |
島 | | 清興 |
武将 | 騎馬 |
[訓練] [回復] [激励] [突撃] |
25 | 83 | 79 |
35 | 95 |
15 |
いど | | よしひろ |
通常版 |
大和 |
1549 |
(1534-1612)筒井家臣。井戸城主。のち居城を子・覚弘に譲り、織田信長に仕える。各地で功を立て、山城槇島2万石を得た。山崎合戦で明智光秀に属したため改易された。 |
井戸 | 才助 | 良弘 |
武将 | 騎馬 |
[登用] |
41 | 46 | 35 |
47 | 70 |
15 |
ほりのうち | | うじよし |
通常版 |
他 |
1564 |
(1549-1615)紀伊の豪族。熊野神宮別当を務めた。豊臣秀吉の紀州征伐軍に降る。朝鮮派兵では水軍を率いた。関ヶ原合戦で西軍に属して改易され、加藤清正に預けられた。 |
堀内 | 新次郎 | 氏善 |
水軍衆 | 槍 |
[雨撃] |
39 | 36 | 27 |
44 | 65 |
15 |
うきた | | あきいえ |
通常版 |
備前備中 |
1578 |
(1563-1616)宇喜多家臣。忠家の子。主家の内乱により出奔、徳川家康に属す。関ヶ原合戦の軍功により石見浜田2万石を領した。大坂の陣では家康の孫・千姫を救出した。 |
宇喜多 | | 詮家 |
旧仏教 | 鉄砲 |
[収拾] [捕縛] |
18 | 32 | 11 |
54 | 45 |
15 |
こおり | | むねやす |
PK追加 |
摂津河内 |
1561 |
(1546-1615)豊臣家臣。馬廻を務めた。関ヶ原合戦では西軍に属し大津城攻撃に参加。主君・秀頼の近侍として諸大名との交渉を担当した。大坂城落城時に、秀頼に殉じた。 |
郡 | 十右衛門 | 宗保 |
国人衆 | 弓 |
[守戦] |
49 | 52 | 46 |
52 | 65 |
15 |
まつした | | しげつな |
PK追加 |
三河 |
1594 |
(1579-1627)豊臣家臣。父・之綱は若い頃の豊臣秀吉を養っていたことで知られる。関ヶ原合戦では東軍に属した。大坂の陣での功などにより、陸奥二本松5万石を領した。 |
松下 | 左助 | 重綱 |
国人衆 | 弓 |
[登用] |
52 | 38 | 46 |
43 | 80 |
15 |
あしや | | どうまん |
諸王 |
下総 |
1555 |
(1540-1620)平安時代の陰陽師。安倍晴明の宿敵として語られることが多い。伝説によれば、藤原道長を呪詛しようとしたが、晴明の活躍で失敗し、都を追放されたという。 |
蘆屋 | | 道満 |
忍者 | 槍 |
[引抜] [回復] [逃亡] [混乱] |
43 | 66 | 88 |
82 | 60 |
15 |
おとべ | | しんざえもん |
諸勢力 |
陸前 |
1599 |
(1584-1657)塩釜の商人。塩釜は奥州一の宮・塩竈神社の門前町、および塩釜港を擁する港町として栄えた。塩釜港は陸奥国府・多賀城への荷揚げ港として古くから栄えた。 |
乙部 | | 新左衛門 |
都市 | 弓 |
[商業] [茶湯] |
50 | 51 | 49 |
45 | 95 |
15 |
ぜにや | | そうとつ |
諸勢力 |
摂津河内 |
1577 |
(1562-1640)堺の商人。銭屋家は宗訥・宗徳と代を伝えた。宗訥は千利休に茶の湯を学び、しばしば茶会を催したという。宗徳は一釜斎と号し、千宗旦に茶の湯を学んだ。 |
銭屋 | | 宗訥 |
都市 | 荷駄 |
[商業] [茶湯] |
41 | 37 | 41 |
50 | 30 |
15 |
たぐさり | | みつもり |
諸勢力 |
陸中 |
1572 |
(1557-1627)陸中の国人。光守は実際は陸奥の豪族で田鎖城主。近隣の豪族と争いを続けるがのちに子・光守とともに南部家に属す。朝鮮派兵に従軍中に居城を破却された。 |
田鎖 | | 光守 |
国人衆 | 槍 |
[商業] |
46 | 47 | 50 |
51 | 45 |
15 |