武将姓 | | 武将名 |
出身・出自 | 登場年 |
(誕生年-死亡年) |
特技 | 政治 | 采配 | 智謀 |
野望 | 義理 | 相性 |
列伝 |
しみず | | やすひで |
通常版 |
他 |
1547 |
(1532-1591)北条家臣。伊豆衆筆頭。氏康子飼いの側近として各地で戦功を立てた。豊臣秀吉の小田原征伐の際は下田城に籠城し、豊臣水軍を相手に善戦するが、降伏した。 |
清水 | 太郎左衛門 | 康英 |
水軍衆 | 弓 |
[改修] [守戦] |
17 | 53 | 29 |
55 | 70 |
83 |
きそ | | よしあり |
通常版 |
南信濃 |
1504 |
(1493-1558)信濃木曾谷の豪族。温和な人柄で、父・義元の頃から対立状態にあった飛騨の三木家との関係修復に尽力、領内の治政安定に努めた。「風流太守」と呼ばれた。 |
木曾 | 源太郎 | 義在 |
武将 | 弓 |
[開墾] [引抜] [収拾] [槍衾] |
79 | 64 | 76 |
49 | 80 |
83 |
はたけやま | | よしつぐ |
通常版 |
加賀能登 |
1532 |
(1517-1590)能登守護。義総の嫡男。相次ぐ内乱で権力を失い、重臣の台頭を許す。子・義綱と協力して実権を回復するが、のちに重臣たちに反発され、能登を追放された。 |
畠山 | | 義続 |
武将 | 騎馬 |
[登用] [守戦] |
50 | 34 | 24 |
52 | 70 |
83 |
はたけやま | | よしつな |
通常版 |
加賀能登 |
1550 |
(1535-1593)能登守護。義続の嫡男。父とともに実権の回復に尽力するが、重臣らに追放されて失敗に終わる。その後、何度も能登入国を試みるが、すべて失敗に終わった。 |
畠山 | 次郎 | 義綱 |
武将 | 弓 |
[逃亡] |
40 | 40 | 29 |
41 | 80 |
83 |
はたけやま | | よしたか |
通常版 |
加賀能登 |
1571 |
(1556-1576)能登の戦国大名。義綱の子。兄・義慶が当主となると、二本松伊賀守と名乗り、義慶を補佐した。義慶の変死後、畠山の家督を相続するが、間もなく急死した。 |
畠山 | | 義隆 |
武将 | 荷駄 |
[回復] |
37 | 47 | 9 |
34 | 65 |
83 |
ゆさ | | ひでより |
通常版 |
加賀能登 |
1520 |
(1505-1554)畠山家臣。能登守護代を務めた。将軍・足利義晴との外交などで活躍した。のちに温井総貞と対立し、羽咋郡一宮で温井軍と戦うが敗北、生け捕りにされた。 |
遊佐 | 孫右衛門 | 秀頼 |
武将 | 騎馬 |
[商業] |
61 | 40 | 61 |
43 | 60 |
83 |
にながわ | | ちかなが |
通常版 |
山城 |
1549 |
(1534-1610)足利家臣。主家滅亡後は長宗我部家に仕えた。関ヶ原合戦で長宗我部家が改易された後、一揆の鎮圧に活躍。のち故実に対する知識を買われ、徳川家に仕えた。 |
蜷川 | 新右衛門 | 親長 |
武将 | 弓 |
[外交] |
52 | 8 | 40 |
9 | 55 |
83 |
はたけやま | | あきたか |
通常版 |
摂津河内 |
1549 |
(1534-1573)河内畠山家当主。高屋城主。政国の子。兄・高政が遊佐信教らに追放された後、信教らに擁立されて家督を継ぐ。のちに信教の暗殺を謀るが、逆に殺された。 |
畠山 | 小二郎 | 昭高 |
武将 | 弓 |
[商業] [連射] |
31 | 35 | 32 |
38 | 60 |
83 |
ゆさ | | ながのり |
通常版 |
摂津河内 |
1506 |
(1491-1551)畠山家臣。河内守護代を務めた。軍略にすぐれ、主家の実権を握る。三好長慶と争うが、娘を長慶に嫁がせて和睦した。のち反長慶派の刺客により暗殺された。 |
遊佐 | | 長教 |
武将 | 騎馬 |
[商業] [登用] [攻城] |
47 | 57 | 64 |
57 | 50 |
83 |
ゆさ | | のぶのり |
通常版 |
摂津河内 |
1539 |
(1524-1573)畠山家臣。長教の子。河内守護代を務めた。主君・高政を紀伊に追放し、高政の弟・昭高を擁立。その昭高をも暗殺するが、のちに織田信長によって討たれた。 |
遊佐 | | 信教 |
武将 | 弓 |
[引抜] |
33 | 38 | 56 |
82 | 55 |
83 |
やまな | | すけとよ |
通常版 |
因幡但馬 |
1526 |
(1511-1580)但馬守護。叔父・誠豊の養子となって家督を継ぐ。弟・豊定を因幡に派遣し、但馬・因幡両国を支配した。のちに羽柴秀吉軍の攻撃を受け敗北、降伏した。 |
山名 | | 祐豊 |
武将 | 騎馬 |
[改修] [訓練] [捕縛] |
51 | 47 | 38 |
63 | 65 |
83 |
やまな | | とよさだ |
通常版 |
因幡但馬 |
1527 |
(1512-1560)因幡守護。鳥取城主。叔父・誠豊の死後兄・祐豊の命により因幡に入る。因幡守護を自称して主家に対抗する山名誠通を討つなど、因幡の領国経営に尽力した。 |
山名 | 九郎 | 豊定 |
武将 | 弓 |
[回復] [収拾] [連射] |
54 | 50 | 51 |
59 | 75 |
83 |
ひさたけ | | ちかなお |
通常版 |
土佐 |
1556 |
(1541-1600)長宗我部家臣。策謀や讒言で多くの同僚を自害に追い込み、主家滅亡の原因を作った。兄・親信は主君・元親に「弟は必ず主家に仇をなす」と語ったという。 |
久武 | 彦七 | 親直 |
武将 | 槍 |
[引抜] |
53 | 30 | 68 |
72 | 30 |
83 |
とみた | | のぶよし |
PK追加 |
近江 |
1581 |
(1566-1622)豊臣家臣。富田一白の子。佐野房綱の隠居により下野唐沢山城主となる。関ヶ原合戦では東軍に属して本領安堵されるがのち兄・富田信高に連座し改易された。 |
富田 | | 信吉 |
武将 | 荷駄 |
[改修] [収拾] |
39 | 46 | 40 |
57 | 50 |
83 |
さかい | | やすとし |
PK追加 |
三河 |
1584 |
(1569-1621)徳川家臣。酒井忠次の次男。本多忠次の養子となる。関ヶ原合戦後、三河西尾2万石を領す。大坂の陣では一揆の鎮定に活躍し、のち近江膳所3万石を領した。 |
酒井 | 九十郎 | 康俊 |
武将 | 弓 |
[攻城] |
45 | 52 | 48 |
53 | 60 |
83 |
りょ | | ふ |
諸王 |
他 |
1551 |
(1536-1578)後漢の将。「人中の呂布、馬中の赤兎」と称された猛将。裏切りを繰り返して大陸を暴れ回るが、自らも部下に裏切られあえない最期をとげた。 |
呂 | | 布 |
武将 | 騎馬 |
[剣豪] [軍神] [槍衾] [突撃] |
25 | 127 | 31 |
95 | 30 |
83 |
かじゅうじ | | ひさあき |
諸勢力 |
山城 |
1590 |
(1575-1637)勧修寺家の当主。勧修寺家は名家の1つで大中納言に進む家柄。尚顕・尹豊・晴秀・晴豊・光豊と代を伝えた。尹豊・晴豊・光豊の3人は武家伝奏を務めた。 |
勧修寺 | | 尚顕 |
朝廷 | 槍 |
[外交] |
61 | 60 | 56 |
44 | 60 |
83 |
しらこ | | ごうざえもん |
諸勢力 |
伊勢志摩 |
1595 |
(1580-1629)桑名の商人。桑名は港町として栄え、のち東海道五十三次の42番目の宿場町となった。桑名港は木曾三川の河口に位置し、物資集積の要所として繁栄した。 |
白子 | | 郷左衛門 |
都市 | 弓 |
[商業] [茶湯] |
49 | 48 | 44 |
44 | 50 |
83 |
じゅうしや | | そうご |
諸勢力 |
山城 |
1549 |
(1534-1626)京都の商人。宗悟は実際は近江出身の茶人。村田珠光の弟子で、武野紹鴎に茶を伝授したという。「山上宗二記」の中で道具目利きの力量がないと批判された。 |
十四屋 | | 宗悟 |
都市 | 荷駄 |
[商業] [茶湯] |
47 | 57 | 57 |
43 | 90 |
83 |
こひなた | | やさぶろう |
諸勢力 |
土佐 |
1593 |
(1578-1651)須崎の商人。須崎は須崎港を擁する港町として発展した。はじめは「洲崎」といった。須崎港は天然の良港として漁港および避難港として利用されていた。 |
小日向 | | 弥三郎 |
都市 | 騎馬 |
[商業] [茶湯] |
47 | 41 | 37 |
41 | 40 |
83 |