武将姓 | 武将名 |
出自 | 信心 | 寿命 |
(生年-没年) |
機種 | 登場年 | 政治 | 統率 | 知略 |
教養 | 義理 | 相性 |
列伝 |
かきざき | すえひろ |
国人 | 神仏 | 89 |
(1507-1595)蠣崎家4代当主。義広の子。先祖より対立の続いていたアイヌと和睦し、蝦夷商船往来の制を定める。この政策により、蝦夷地の領主としての地位を確立した。
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蠣崎 |
季広 |
71 | 44 | 63 |
55 | 52 |
35 |
通常版 | 1522 |
混乱 |
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かきざき | よしひろ |
国人 | 神仏 | 68 |
(1549-1616)蠣崎家5代当主。季広の子。豊臣秀吉に接近して蝦夷地における交易権を獲得、独立領主となった。1599年に徳川家康に家系図を献上し、松前姓に改めた。
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蠣崎 |
慶広 |
75 | 49 | 64 |
62 | 31 |
35 |
通常版 | 1564 |
斉射・1 |
収拾 |
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かきざき | もりひろ |
国人 | 神仏 | 38 |
(1571-1608)蠣崎松前家6代当主。慶広の子。徳川家康が内大臣となった際、父とともに家康に拝謁した。1600年に松前藩2代藩主となるが、父に先立ち病死した。
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蠣崎 |
盛広 |
63 | 33 | 25 |
52 | 72 |
34 |
通常版 | 1586 |
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かきざき | もりひろ |
国人 | 神仏 | 72 |
(1564-1635)松前藩家老。季広の十一男。一家を興して家臣となる。4代藩主・氏広を自宅で饗応した際、偶然火災が起こったため、その罪を負って火中に入り死去した。
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蠣崎 |
守広 |
36 | 32 | 45 |
43 | 55 |
32 |
通常版 | 1579 |
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こんどう | よしたけ |
国人 | 神仏 | 70 |
(1569-1638)松前藩士。袮保田館主・近藤季常の末裔という。公卿・花山院忠長が蝦夷に配流された際は、接待役を務めた。大坂夏の陣では主君・慶広に従って出陣した。
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近藤 |
義武 |
54 | 39 | 54 |
57 | 68 |
33 |
通常版 | 1584 |
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なんじょう | ひろつぐ |
国人 | 神仏 | 35 |
(1528-1562)蠣崎家臣。勝山館主。蠣崎季広の長女を娶った。のちに妻が弟の舜広、元広(季広の長男、次男)を毒殺した罪に連座して自害。「逆さ水松」の伝説を残した。
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南条 |
広継 |
34 | 51 | 58 |
47 | 20 |
33 |
通常版 | 1543 |
挑発 |
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なんぶ | はるまさ |
国人 | 神仏 | 66 |
(1517-1582)南部家24代当主。安信の子。将軍・足利義晴の偏諱を賜り、晴政と名乗る。三戸城を本拠に「三日月の丸くなるまで南部領」といわれる広大な版図を築いた。
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南部 |
晴政 |
35 | 79 | 36 |
42 | 29 |
66 |
通常版 | 1532 |
突撃・2 |
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いしかわ | たかのぶ |
重臣 | 神仏 | 76 |
(1496-1571)南部家臣。南部政康の次男。津軽郡代として甥・晴政を補佐し、南部家の勢力拡大に大きく貢献した。のちに家臣・大浦(津軽)為信の謀叛により、自害した。
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石川 |
高信 |
47 | 72 | 47 |
57 | 80 |
67 |
通常版 | 1511 |
突撃・1 |
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なんぶ | のぶなお |
重臣 | 神仏 | 54 |
(1546-1599)南部家26代当主。石川高信の子。晴継(晴政の子)死後の御家騒動に勝ち、家督を継ぐ。九戸政実の乱などに苦しむが豊臣秀吉に接近して領内を統一した。
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南部 |
信直 |
72 | 37 | 70 |
53 | 75 |
67 |
通常版 | 1561 |
挑発 |
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なんぶ | としなお |
重臣 | 神仏 | 57 |
(1576-1632)南部家27代当主。信直の子。父の死後に家督を継ぐ。関ヶ原合戦では東軍に属し、最上家を救援した。領内の一揆を平定するなど、南部藩の基礎を築いた。
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南部 |
利直 |
68 | 48 | 73 |
56 | 40 |
67 |
通常版 | 1591 |
斉射・1 |
混乱 |
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いずみやま | ふるやす |
武士 | 神仏 | 55 |
(1536-1590)南部家臣。政昭(石亀信房の子)の子。叔父・泉山康朝の養子として三戸郷泉山村を領し、泉山姓を名乗る。娘・慈照院はのちに主君・信直の後室となった。
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泉山 |
古康 |
60 | 36 | 44 |
54 | 67 |
67 |
通常版 | 1551 |
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いずみやま | まさよし |
武士 | 神仏 | 70 |
(1560-1629)南部家臣。古康の嫡男。姉は主君・信直の後室・慈照院。のちに石亀家が絶えたため、石亀姓を名乗った。信直の義弟として南部藩重臣20名のうちに列した。
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泉山 |
政義 |
54 | 27 | 43 |
53 | 57 |
67 |
通常版 | 1575 |
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きた | のぶちか |
重臣 | 神仏 | 91 |
(1523-1613)南部家臣。剣吉城主。晴政死後の御家騒動では信直を支持、信直の筆頭家老として活躍した。合戦に臨む際は、必ず小さな観音像を髻の中に収めていたという。
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北 |
信愛 |
75 | 68 | 64 |
71 | 88 |
67 |
通常版 | 1538 |
突撃・1 |
挑発 |
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はちのへ | まさよし |
武士 | 神仏 | 67 |
(1544-1610)南部家臣。八戸根城主。北信愛とともに主家を支えた重臣。信直が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した際には、留守居役を務めている。眼疾で盲目だったという。
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八戸 |
政栄 |
67 | 42 | 56 |
59 | 84 |
67 |
通常版 | 1559 |
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くのへ | のぶなか |
国人 | 神仏 | 55 |
(1514-1568)南部家臣。信実の長男。九戸城主。右京と称す。九戸家は南部家の庶流で、南部行連(南部家の始祖・光行の六男)を祖とするという。八戸信長の娘を娶った。
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九戸 |
信仲 |
38 | 53 | 57 |
48 | 22 |
60 |
通常版 | 1529 |
斉射・1 |
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くのへ | まさざね |
国人 | 神仏 | 56 |
(1536-1591)南部家臣。信仲の子。南部晴政の死後、弟・実親を後継者に推すが敗れ、叛乱を起こす。南部信直の要請で出陣した豊臣軍相手に善戦するが敗れ、斬首された。
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九戸 |
政実 |
32 | 69 | 37 |
37 | 5 |
60 |
通常版 | 1551 |
突撃・1 |
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くのへ | さねちか |
国人 | 神仏 | 50 |
(1542-1591)南部家臣。信仲の子。南部晴政の次女と結婚し、後継者候補となる。主家に反旗を翻した兄・政実とともに九戸城に籠城し、豊臣軍と戦うが敗れ、斬首された。
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九戸 |
実親 |
29 | 67 | 27 |
38 | 24 |
60 |
通常版 | 1557 |
突撃・1 |
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たかだ | やすざね |
国人 | 神仏 | 42 |
(1553-1594)南部家臣。九戸信仲の子。はじめ高水寺城主・斯波詮真の娘婿となるが、のちに斯波家を出奔、斯波家討伐軍の先鋒を務めた。従兄弟・連尹に斬られ死去した。
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高田 |
康真 |
30 | 19 | 63 |
53 | 16 |
60 |
通常版 | 1568 |
鼓舞 |
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おおうら | ためのり |
武士 | 神仏 | 48 |
(1520-1567)南部家臣。政信の嫡男。大浦城主。父の死後、家督を継ぐ。生来病弱であったという。のちに娘・戌の婿に大浦(津軽)為信を迎えて後継者とした。
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大浦 |
為則 |
60 | 35 | 53 |
50 | 60 |
13 |
通常版 | 1535 |
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つがる | ためのぶ |
武士 | 神仏 | 58 |
(1550-1607)弘前藩初代藩主。大浦為則の娘を娶る。主家・南部家から独立し、17年かけて津軽を統一した。豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し、正式に津軽の領主となった。
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津軽 |
為信 |
84 | 73 | 85 |
67 | 3 |
13 |
通常版 | 1565 |
槍衾・1 |
破壊 |
混乱 |